人生を最後まで“自分らしく生きる”ためのビジョンを持っていれば、自分のピッタリ合った服を仕立て直すことは、それほどむずかしいことではないと私は思うのです。(2)
<憲法改正は国会議員の最大の存在意義>
・だからこそ、憲法改正案を発議し、国民投票にかける。これは国会議員にしかできない仕事です。なんとか私が議席をいただいているうちに、私の思う憲法改正を実現したい、と今でも思っています。
<集団的自衛権を整理する>
・だから集団的自衛権行使は、憲法上の問題ではないと私は思っています。集団的自衛権は、理論的には現行憲法上も認められる。ただし、その行使にあたっては、法律で厳しく制約をかけるべきだ、ということです。
・しかし、残念なことに、その後、この国家安全保障基本法は議論の俎上に上ることはなくなっていきました。同様に、2012年自民党憲法改正草案も、「あれは野党時代のもの」として現実味がないかのように考える人がいいるのは、とても残念です。
<閣内不一致を避ける>
・しかし、私は2012年憲法改正草案や国家安全保障基本法の制定に深く関わってきており、私の答弁次第で閣内不一致と言われ、内閣、なかんずく総理にご迷惑をおかけする可能性がある以上は、担当大臣をお引き受けするわけにはいきませんでした。
<基地問題との関係>
・戦後日本は、集団的自衛権の問題、あるいは憲法の問題を突き詰めて考えてきませんでした。
<独立国として国を守る>
・米軍基地に反対される方々が常に問題視する「日米地位協定」は、日米安全保障条約と一体です。ですから当然、突き詰めていけば、地位協定の問題は集団的自衛権の問題、憲法の問題となるのです。
<リアリストとは何か>
・「まあ理屈では石破さんの言う通りかもしれない。でも、今は安倍さんのプランのほうが世間に通りやすいってことなんだよ。理想を言っても現実が動かないんじゃ仕方がないでしょう。もうちょっと現実に向き合いなよ」
そしてこのようなアプローチをする人をリアリストと呼ぶ人がいるかもしれません。しかし、私はそこを問いたいのです。
<私たちが向き合うべき現実>
・北朝鮮は、過去に何度も約束を反故にしてきた国なのです。これも現実です。中国の軍拡も、今のところ留まるところを知りません。これもまた向き合うべき現実です。
・私たち日本国民はまず、先の戦争において地上戦が行われ、県民の4分の1もの死者を出したのは沖縄だけだ、という点をきちんと確認しなければならないと思います。
<スタンプ集めに意味はない>
・安全保障という国の根幹に関わる問題について本質的な議論とは、我が国にとっての脅威とは何か、それに対して抑止力をいかにして維持し強化するか、あるいは有事に至らない態様で領土主権が侵された場合にどう対応するか、という具体論のはずです。しかしこういった議論は、国会ではほとんど行なわれず、憲法の解釈をめぐる攻防ばかりが繰り返される。
<党内議論を軽視してはならない>
・憲法改正に限らず、最近、自民党内でのそれまでの議論を踏まえずに政府部内のみで決定される政策が多いように思われます。それが「政高党低」と言われる所以かもしれません。
かつて党を二分し、離党者まで出した郵政民営化の議論であっても、党内のプロセスは踏んでいました。
・しかし最近の政策、例えば農協改革や消費税の使途変更、裁量労働制の拡大など、党内の議論と手続きを経ることなく、突如として政府の政策となって出されるものが目に付くようになりました。総選挙の直前に消費税の使途を子育て、教育に拡大するという方針について私が初めて耳にしたのは、カーラジオから流れるニュースでした。聞いてひっくり返るほど驚きました。
<強い論理こそが道を拓く>
・忘れてはならないのは、党内議論を経た政策のほうが、論理的説得力は強くなるという点です。
<丁寧に説明すれば国民は理解してくれる>
<三つの衝撃>
・私が政治家になったのは1986年。まだ冷戦のさなかでした。それから現在まで、信じられない思いでテレビを見た出来事が3回あります。1991年のソ連崩壊、2001年の9・11、2011年の3・11です。
ソ連の崩壊を目の当たりにしたとき、私は「あれだけの強大国がこんなに脆く解体されるものか」と衝撃を受けました。
<何となくうまく回っていた時代>
・安全保障だけではありません。経済も高度成長期から「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた絶頂期の余韻のままバブル期を迎えており、このまま成長が続く、好景気が続くとほとんど人が思っていました。今から思えば不思議な時代でした。
・冷戦が終わり、バブルがはじけるとそうはいかなくなりました。国政がその本旨に立ち返り、国を造りかえるための大きな方針を示さなければならない時代となったのです。
<地方創生担当大臣>
・結局、私は2014年から、政権が新しく進める政策となった「地方創生」を担当する大臣を務めることになりました。
・地方創生大臣を2年間務めた後、農林水産大臣というお話もありましたが、TPP交渉に関して、それまでまったく関わっておらず、その経緯もわからない私より、もっと事情に通じた適任者がいると申し上げました。
・こうして、2016年、私は閣外に出ることとなりました。
<天皇陛下について>
・その後、自由な立場から思うところを発信してきました。安倍総理には熱烈な支持者の方が多く、私が政府の方針に異を唱えると、それだけで反発を買うこともよくあります。
<二つの学園問題>
・まったくレベルの異なる話ではありますが、そうした心配が杞憂に終わらなかったのが、「森友」「加計」二つの学園問題であったように思います。
<丁寧に説明するしかない>
・話を戻せば、二つの「学園問題」について、政府の説明は丁寧さを欠いていたり、必ずしも国民の疑問に真正面から答えなかったりしたのだと思います。この点については私も含め、与党としても猛省する必要があります。
<論理的な説明は通じる>
・かつて有事法制の制定に携わったときのことです。私は防衛庁長官でした。有事の際に国民を守るために絶対に必要な法律でしたが、当初は「戦争準備法だ」といったレッテルを貼られていました。最近の平和安全法制のときとよく似た状況でした。
私はこの時、なぜ有事法制が必要なのか、とにかく丁寧に説明を繰り返しました。
<消費税賛成で当選>
・しかし、結局、この選挙で私はトップ当選を果たします。選挙戦の最中から、「あなただけがなぜ消費税が必要なのかを正面から訴えている」という激励の声をいただいていました。
<マスコミのせいにしない>
・確かにマスコミが正確な情報を伝えてくれるとは限りません。私自身、腹立たしい思いをしたことは一度や二度ではありません。
・結局は、どれだけ政策や、その土台となっているビジョンについて自分の言葉で語れるかが重要になるのです。
<勇気と真心をもって真実を語る>
・「本当のことを勇気をもって国民に語るために、政治家はいるのだ。勇気と真心をもって真実を語るのが、その使命だ」
この渡辺美智雄先生の言葉こそが、私の政治家としての原点です。
<本気で国民の命を守るための議論が求められている>
<Jアラートを向上させる>
・実は自民党本部でも、国会議員会館でも、ミサイルに備えた避難訓練はしたことがありません。それで国民に「避難して下さい」というのは、いかにも説得力がない話です。そうした姿勢は国民には見透かされるでしょう。
真剣に考えなくてはいけないのは「いったいどうすればいいというのか」という不安に対する答えを用意することではないでしょうか。日本における核シェルター(避難所)の普及率は0.02%と言われています。スイス、イスラエルでは100%、ノルウェーでは98%で、アジアを見ても、シンガポールで54%、韓国でもソウルあたりは100%以上とされています。いかに日本が突出して低いかということです。
今さら言うまでもありませんが、現在、世界で最もミサイルの脅威にさらされている国の一つが日本です。それなのにこのような状況でいいとは、とても思えません。
<防災省の必要性>
・このような確実性の高い避難体制などを、防衛の観点からは「拒否的抑止」といいます。「ミサイルに対してはミサイル」という体制によって、相手に攻撃を思いとどまらせることを「懲罰的抑止」といいますが、これに対して「攻撃しても意図したような被害は出ない」という体制をつくることで相手に攻撃を思いとどまらせるというものです。
実は、このような拒否的抑止を構築するための方策と、防災の対策というのはかなりの部分が重なっています。
我が国は有数の災害国であり、長きにわたって各種の天災に対応してきました。
・そのために「防災省」(仮称)を作り、我が国のみならず災害の多発しているアジア地域、ひいては世界中にそのノウハウやインフラを輸出し、災害国であることを強みに変えていきたい、と考えています。そういう省が、たとえばシェルターの設置についても自治体と相談しながら進めていく。もし公民館などにシェルターがあれば、「どうすればいいのか」とはならないはずです。
地方創生担当大臣を務めていたときに、この「防災省」的な組織が日本に必要ではないか、との問題提起をさせていただいたこともありました。
・これでは「いかにしてミサイルから国民と国土を守るか」という本質的な議論を先延ばしにしているように思われても仕方ありません。
<核についても本質的な議論を>
・本来、日本として核兵器や核抑止にどう向き合うべきかというようなテーマは、平時に冷静な環境の下で論じられるべきなのです。
・毛主席の「たとえパンツをはかなくても核を保有する」という言葉はあまりにも有名です(正確には、当時の陳毅外相が「ズボンを質に入れてでも核を保有する」と述べたものが、毛沢東の言葉として伝えられているようですが)。
・日本核武装論は、ある意味さまざまな安全保障上の危機のたびに提起されます。私は危機に際して提起されること自体は自然なことだと思いますし、「いつか日本が核武装するかもしれない」と思われることで働いている抑止力も相当あると思います。
しかし同時に、現時点で私は、我が国が核武装するメリットを見出せません。
<非核三原則とニュークリア・シェアリング>
・そして日本型の「ニュークリア・シェアリング」の可能性を検討すべきだ、と私はテレビ番組などで発言しました。
・多くの場合、安全保障に関する議論が、どこか現実と離れたものに終始しているのは、とても危険なことだと思います。
<現実的な対策が急務である>
・私が憲法改正を必要不可欠だと考えている、ということはすでに述べました。
・ところが、このような実務的な、具体的な話は、全然受けないのです。報道もされないし、国会でも質問されない。「まずは憲法9条を改正すべきだ」「憲法に自衛隊を書かないのは失礼だ」といった話ばかりが取り上げられます。
<国会で本質的な議論をするためには与党の努力が必要である>
<異論と「足を引っ張る」はまったく違う>
・よく、企業の方々とお話ししていると、「自民党」を一つの会社組織に例えられる方が結構おられますが、自民党に限らず、国会議員と所属政党とはそのような関係ではありません。むしろ「経団連」や「経済同友会」のような組織だと思っていただいた方が近いのではないかと思います。それだけ、個々の国会議員の独立性、自律性は高いのです。
・私たちは有権者の代表として選ばれた、独立した存在なのです。
<野党は与党が、与党は野党がつくる>
・国会における野党の質問は、どんなにそれが少数であったとしても、やはり国民有権者の一部の疑問を反映しているものです。
・立場は違いますが、総理という仕事がいかに重圧に耐えねばならないものか、本当に命を削るような仕事であることは、私も何度か閣内にいて総理を近くで見て、よくわかっておるつもりであります。
<与党はすきを見せてはいけない>
・そもそも野党の仕事は、突き詰めて言えば時の政権を倒すこと。内閣総辞職に追い込むか、衆議院を解散させることです。
自民党は野党時代にそのように明確に目標を定めていたからこそ、不適格な大臣や非常識な政策、一つ一つを戦略的に狙い撃ちにして、閣僚を辞任に追い込んだり、法案を廃案に追い込んだりできたのです。
<「いい質問」とは>
・こうやって一旦論点をつぶしてしまえば、野党が感情論やひっかけで同じところをついてきても、もう怖くはありません。これが与党から内閣への強力なアシストともなるのです。せっかく質問時間を長くしてもらったのですから、わが党の若手議員にはもっと「いい質問」を考えてもらいたいと思います。
・自ら政策を考え、理論を構築し、それを聞かせるスピーチの能力もある。そういう人は概して選挙にも強い人です。やはり有権者はきちんと見ているのだ、と思います。ともあれ、質問の価値は単なる時間の長さではなく、内容によって決まるものです。
<大臣は多忙すぎる>
・2001年から政治改革の一環として国会における答弁はすべて大臣、副大臣、政務官、つまり政務三役が行うようになりました。
・私は、ことここに至っては、局長答弁は復活させた方がいいと思っています。そもそも国会質問のシステムも抜本的に変えるべきだと思います。
・さて、3時や4時にできた答弁資料ですが、私のように先に目を通したい場合は午前5時ごろに宿舎に届けてもらうことになります。
・ですから国会開会中は、大臣たちには全く時間的、心理的余裕がありません。そして当然ながら、この間、省庁での仕事はほとんどできません。しかも、ここまでの手間をかけても国会で建設的な議論が行なわれるとは限りません。
・現在の野党議員の中にも、与党として同様の経験をして、苦労をした方も多いことでしょう。このようなシステムは、誰にとってもプラスにならないのですから、変えていくことが国民の期待に応えることになるのではないでしょうか。
<不利益の分配を脱し自由な選択で幸せを実現する>
<果実の分配が政治の仕事だった>
・しかし、2章で紹介した重光外相のチャレンジに代表される外交・安全保障上の課題、特に日米同盟の特殊性の是正や見直しは、岸内閣以降いわば封印されました。岸総理は旧安保条約の不平等性を大きく改善しましたが、それは予想以上に大きな政治的コストを強いるものでした。ゆえにこれ以降日本は、独立国家としてどうすべきか、といったことを議論しなくなりました。意図的にそうしたことを避けてきました。だから憲法を正面から語ることもありませんでした。
<竹下総理の功績>
・一方で内政においては、「不都合な真実」を語って、短期的な利益より長期的な国益を優先した総理がいました。竹下登総理です。
まだ現在ほど社会保障制度の維持が困難だとは危惧されていなかった時代に、明らかに選挙に不利な消費税の導入、「果実の分配」ではなく「不利益の分配」とも言える政策をあえて実行しました。
・これからの政治家は、こうした「不利益の分配」についても正面から語っていくことがますます求められるようになるということです。その意味では、政治家は昔以上に歓迎されない仕事になっていくのかもしれません。
<地方政治家の疲弊>
・萌芽はすでに地方でも見えています。地方政治は民主主義の学校だ――などという表現はよく耳にするところですが、それが本当だとすれば、地方において投票率の低下が深刻なことになっている点には、もっと注意すべきでしょう。
・いい加減な政務活動費の使い方をしている地方議員をニュースで見れば、「美味しい仕事に違いない」と思われることでしょう。しかし、ああいう人はごく一部であって、真面目に取り組むとかなりきつく、報われることも少ない仕事なのです。実際には地方の首長で、「辞めたい」という人に対して周りから「頼むからもう一期やってくれ」と説き伏せられてやむなく続けているケースも珍しくありません。
やがてこの動きが国政に広がる可能性は十分あります。つまり国会議員も、このままだとどんどん成り手がいなくなるのではないか。そんな危惧を私は抱いています。
法定された国会議員の年収は約2100万円です。金額だけを見ればまさに「高級取り」ですが、この額で平均10人程度のスタッフを雇うのはほとんど無理です。国で手当てされている秘書は3人だけ。正直に申し上げて、この支給された収入だけでは次回の当選はあきらめざるを得ないでしょう。
しかも、世間の厳しい目にさらされながら、激務をこなさなければなりません(真面目に働けばやはりとても忙しいのです)。しかも落選すれば、とたんに無職です。
・そもそも「不利益の分配」などという話は、大向こう受けが期待できません。しかし、政治家はそれも語らなければならない仕事なのです。大向こう受けを狙い続けた結果が現在なのですから。
<アベノミクスの先を>
・安倍政権になってからの経済政策、いわゆる「アベノミクス」については様々な意見がありますが、それまで、特に民主党政権のもとで慢性化し長期化していたデフレを脱却することを目標に掲げ、実際にデフレ状況から各種指標を大幅に改善してきたことは、率直に評価されるべきものだと思っています。その最たるものが株価や為替であり、雇用情勢も劇的に改善しました。
・一方で、経済構造改革は進まず、潜在成長率が期待通りに伸びていないことも事実です。
<日本の根本的な問題>
・根本的な問題とは何か。端的に説明するために、私がよく用いている数字があります。1960年と2015年の日本の社会保障制度に関連したデータの比較です(ただし、前者はまだ本土復帰前なので沖縄は含まれていません)。
まずGDPは16.7兆円から532.2兆円と32倍になりました。人口は9430万人から1億2709万人と1.35倍。このうち65歳以上の人口が540万人から3347万人と6.2倍になっています。全人口に占める割合は5.7%から26.3%にまでなっています。
今では65歳で働いている人も珍しくありません。
・85歳以上人口は18.8万人が488.7万人と26倍に。また百歳以上は144人が61763人と428.9倍になっています。
平均寿命は男性が15歳、女性が17歳伸びました。日本が世界に冠たる長寿国になったことは誇るべきことです。
この間、国の予算は1.6兆円から96.3兆円、つまり約60倍になりました。一方で社会保障制度の支出は0.7兆円が114.9兆円になっています。164.1倍です。
そして、現在のペースが仮にこのまま続けば、日本の人口は2100年に5200万人、200年後には1391万人、300年後には423万人になる、と予想されています。
さて、これを見て皆さんはどう思いますか。
<大切なのは国民一人一人の幸せ>
・「西暦3000年には日本人は1千人になる」などというと、「そんなことはありえないよ、大げさな」というような反応を示す人も多くいます。私が言いたいのは「このまま放置したら」大変なことになる、ということです。つまり、今なんとかしましょうよ、その認識を共有してください、ということなのです。
・この半世紀で国家予算が60倍なのに対して、社会保障制度の支出は160倍。これも、いい悪いの問題ではなく、「持続可能性の高いプランニングを考えましょうよ」と言いたいのです。
・アベノミクス以前、日本の経済は停滞していました。売り上げも賃金も伸びない。特に輸出中心の製造業は苦しい状態でした。それが大胆な金融緩和によって、円安となり、輸出産業は潤いました。円換算によれば収益も増加しました。
しかし、実は全体の売り上げは伸びていませんし、賃金も上がっていません。だから「実感がない」と言われるのです。
株価の上昇も円安の賜物だと考えたほうがいいでしょう。これもよかったことの一つですが、そこにとどまらず、国民一人一人の幸福につなげる方策を考えなくてはいけません。
有効求人倍率も上がりましたが、これも団塊の世代の方々が大量に退職する年代を迎えたことによる構造的な人手不足が背景にあると考えたほうがいいでしょう。
<賃金が上がらない理由>
・就業構造も大まかにいうと、製造業からサービス業へ、男性から女性へ、正規から非正規へ、若者から高齢者へとシフトしています。これはみな、賃金を押し下げる要因となりえます。
・さきほど、企業の収益が上がっているのに、売り上げは伸びていない、という話をしました。売り上げが伸びていないのに儲かっているというなら、それはコストが下がっているということです。つまり企業にとって人件費が下がるのは、短期的に見た場合には悪いことではありません。しかし長期的に見れば、労働者すなわち消費者なのですから、国内でモノを買ってくれるお客様の手取りが増えないことになってしまいます。アベノミクスの次に改善しなければいけないのは、まさにここです。
・こうした問題は構造的なものですから、「金融緩和」と「財政出動」だけでは解答を示しえないのです。売り上げも賃金も設備投資も伸びていないというのは、そういうことです。企業にお願いして賃金を上げてもらう、国内の設備投資に回してもらう、というのは、運動論として意味があるかもしれませんが、全体的な状況改善にはつながらないでしょう。
・それでも、ある種の論者はこう言います。「まだまだ金融緩和が足りない。もっとやれば、景気も回復していく」
金融政策は日銀の所管ですから、私がどうこういうものではありません。
・今の日本のように人口が減少していくことを経済学の教科書は想定していませんでした。こんなに高齢者が多くなることも想定していませんでした。
<地方創生は経済政策でもある>
・もちろん、政治も政策も「こうすれば万事解決」といった魔法の杖ではありませんが、すでに一つの方向性は見えています。
私は、日本経済の構造を変える一つの答えとして、どれだけ地方の力を伸ばせるかということがあるだろうと考えています。
・しかし、日本のGDPの7割、雇用の8割を占めているのは、ローカルの中小企業なのです。
<官僚も企業も地方を目指せ>
・文化庁を京都に移したことに代表される省庁の地方移転は、そのための試みの一つでした。
・企業に対しても、本社機能の一部を地方移転した場合には減税というインセンティブも用意しました。
<東京以外でも住めば都>
・人材が東京、首都圏に偏在している状況は日本全体にとって不幸な話です。
・大企業はある意味で、政府が放っておいても自分たちで人材を確保し、生き抜くために手を打ちます。
・関連して取り組んでいくべき施策として、中古住宅の流通を活性化させることも挙げられます。
<地方創生の成功例>
・地方が活性化し、蘇った実例は数多くあります。いずれも関わった人たちの創意工夫、熱意が感じられる感動的で興味深いエピソードばかりです。
<東京だけが憧れだった時代は終わった>
・私は、この先の日本に明るい未来をもたらすのは、こうした地に足の着いた取り組みであると確信しています。
・『日本列島創世論』を読んだ方から「石破の言っていることはスケールが小さい」という批判があったとも聞きました。
・すでに若干述べてきましたが、地方創生は地方だけの話ではありません。
・急に現金が支給されたので、なかにはおかしな使い方をした自治体も少なくありませんでした。なかには「村営キャバレー」のようなものを作ったところまであった。そのため、この政策は当時、評判が良いものではなかったようです。
<長期的ビジョンで議論を>
・国会議員も、あるいは中央メディアもあまり取り上げないことですが、今でもこの国の経済を支えている多くの人は圧倒的に地方にいます。8割以上のローカル企業が地方から日本経済を支えています。その地方が変わらないで、日本が変わるはずがありません。
・さらに問題なのは、過度の人口集中により災害に対してきわめて脆弱で、世界一危険な大都市とさえ言われていることです。
・本来、こうした長期的な国家ビジョンについては、国会でもっと議論されるべきテーマです。
<選挙で勝つ体制が長期ビジョンを支える>
<田中派からスタートした政治家人生>
・水月会をつくるにあたって、「石破は派閥否定論者だったはずじゃないか」といったご指摘をいただくこともありましたが、それはちょっと事実とは異なります。もともと私は決して派閥否定論者ではありません。そもそも田中派に育ててもらい、渡辺派で初当選したのですから。
<「君は政治家になるんだ」>
・そんなことがあり、その年、私は三井銀行(当時)に入行し、日本橋本町支店に配属されます。入った当初は、お札の勘定すらおぼつかず、仕事を身につけるために朝7時半に職場に入り、夜は残業につぐ残業という日々でした。午後11時よりも早く帰った記憶がありません。
それが当時の日本企業ではよくある風景でした。
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