野安押別命とは、ノアの方舟のノアのことだ。方舟に乗せる動物を選んだので、押別命なのだろう。母宇世は『旧約聖書』の十戒のモーゼ、伊恵斯はもちろんイエス・キリストである(4)

 『<三島由紀夫の幽霊談「第二段階」と村上春樹の「地下二階」 大谷哲>』 ・「怪異」という語と「異界」という語は密接であるが、「異郷」でも「他界」でもない、「異界」なる語が一般的にも流通するようになったのはいつからか。この語を広めた一つには、小松和彦氏の仕事が挙げられる。慣れ親しんだ既知の領域と、そうではない未知の領域。小松氏の言によれば、前者は秩序づけられた友好的な世界、「われわれ」として分類できる者たちが住む世界。「われわれの世界」と「かれらの世界」の対立は、「人間世界」と「異界」との対立となる。 ・先走って言うことになるが、日本の近代小説は<超越>の問題が主観的に含まれているのみならず、<語り>の構造において<超越><言語以前><語りえぬもの>の領域を拓いていく<言葉の仕組み>を有している。例えば、田山花袋や島崎藤村に代表される日本の自然主義文学から私小説の流れを近代小説の主流として構成されるのが既存の文学史である。これを常識に反し<近代の物語>とする一方で、北村透谷を含め森鴎外、夏目漱石、芥川龍之介、川端康成、宮沢賢治、太宰治、三島由紀夫、その嫡子としての村上春樹らによる作品を<近代小説>の系列として峻別するのが田中実氏の提起である。本稿はこの提起を踏まえた新たな文学史的構想の枠組みを採用するが、これもまた一つの対立関係の構成比ではある。 <ランボー<未知なるもの>と<見者>、透谷<インスピレーション>と<生命の眼>> ・「他界」というものが在るか無いかという様な奇怪な問題は暫く置く(尤も、そういう問題にいっぺんも見舞われた事のない人の方が、一層奇怪に思われるが)。確かな事は、僕等の棲む「下界」が既に謎と神秘に充ち充ちているという事だ。彼等が理解している処から得ているものは、理解していないところから得ているものに比べれば、物の数ではあるまい。而も、その事が、彼等の生存の殆ど本質をなすものではなかろうか。 ・この「他界」とは本来ランボーにとっては、われわれの住まう現実を構成する「言語」という制度の<向こう側>としての「彼岸」「彼方」のことである。そうだとすれば、現実と異界、「われわれ」と「かれら」といった言語による二項対立に支配された世界をさらに超えたもの、<超越>への跳躍のもとに垣間見られるものである。 ・『他界に対する観念』に話を戻せば、確かに透谷は『竹取物語』『羽衣』を挙げ、たとえ「繊細巧妙」ではあっても「崇高荘偉」に欠けるとして、日本の文学(詩)においては乏しい「他界観念」の重要性を説いている。だがその真意は光と影、神と悪魔といった二元論的対立を作品の結構として取り入れ、想像力と無難に戯れることを奨励するものではない。 <幽霊談の「第二段階」へ――「小説とは何か」と『遠野物語』、または柳田と賢治の共振> ・小林秀雄と三島由紀夫の『金閣寺』をめぐっての対談を、両者の小説観の相違が際どく現れたもの、小林が<小説>を<物語>で読んでいること、その思考の制度を余すところなく、象徴的に示すものとして取り上げたのは先の田中実氏である。「小林は『金閣寺』から物語の動機に当る「やるまで」(金閣放火)を読み、三島自身はその後の「やってから」、「詩はおろか、手記のようなものさえ書いたことがない」主人公があたかも小説家、三島由紀夫そっくり、簡潔にして豊穣、あるいは饒舌な「言葉」をどのように(HOW)、何故(WHY)、手にいれて書いているのか、それが「牢屋」に入ることになると読んでいる」と述べる。 <ミシマからムラカミへ>から<三島から村上へ>へ> ・2000年以降、海外での日本近代文学の受容状況報告の中で、三島や川端と村上春樹のそれを時系列的に比較する言説が形成されつつあるという。 ・かつては村上への批判者であった大江健三郎との関係から形成された「大江か村上か」の二項対立から「大江と村上」へという両者をともに見はるかす理解の構図への変換を説くに至っては、漱石や川端に加えて、谷崎潤一郎、安部公房、大江健三郎、中上健次までを等し並に「日本の純文学の系譜」と一括し、従来はこれらと村上を対比的に捉えたことに問題があったとするのが加藤氏の問題構成である。 ・かつて人間の存在を「二階建ての家」と「地下室」に例えた村上の発言がある。一階は「ごはん食べたり、テレビを見たり、話したりするところ」。二階は「一人になって本読んだり、一人で音楽聴いたりする。そして、地下室というのがあって……日常的に使うことはないけれど、ときどき入っていって、なんかぼんやりしたりするんだけど、その地下室の下にはまた別の地下室がある」と言うのである。 ・日本の一種の前近代の物語性というのは、現代の中にもじゅうぶん持ち込めると思ってるんですよ。いわゆる近代的自我というのは、下手するとというか、ほとんどが地下一階でやっているんです。……だからみんな、 なるほどなるほどと、読み方はわかるんです。あ、そういうことなんだなって頭でわかる。そういう思考体系みたいなのができあがっているから。でも地下二階に行ってしまうと、これはもう頭だけでは処理できないですよね。……たとえば地下一階で行われている作業を批評していた人が、地下二階に潜っていって同じコンテクストを使って同質的に批評できるかというと、それは無理だろうと僕は思います。………僕の自我がもしあれは、それを物語に沈めるんですよ。僕の自我がそこには沈んだときに物語がどういう言葉を発するかというのが大事なんです。 ・ただこの「地下二階」が、「通常は抑圧され封じ込められている意識や欲望」という「地下一階」のさらなる「外部」を示唆する領域であることは了解できよう。「地下二階」の出来事とは、物語(ストーリー)におけるプロットを支える領域、因果関係のさらなる根源である。<語りえぬもの><言語以前>の領域と同義と解せよう。村上作品には、「僕」と「鼠」に顕著な主題論的な分身関係も含め、鏡や夢の境界性、山中他界往還譚を参照したであろう異界性、また壁抜け、同時存在といったまさに怪異が繰り返し描かれてきた。ただし、それらが<言語以前/言語以後>の対立関係に基づく<超越>を介在させた<世界観の表象>であるとすれば、<怪異>はそれ相応のものとして対象化されることになる。本稿はその所以を長々と述べてきたにも等しい。いかなる水準かは措くとして、今日海外では三島の後裔としての位置が村上に代表されているのだという。そうであればいま最もチャレンジングな批評的企ての一つとは、作品固有の<言葉の仕組み>に正対した個別具体の<読み>の成果の側から、<三島から村上へ>と受け渡されたものを見定めることではないか。三島の幽霊談「第二段階」から、村上の「地下二階」への振幅と深度が、<近代小説>の圏域である。 『アジア未知動物紀行』 ベトナム・奄美・アフガニスタン 高野秀行    講談社   2009/9/2 <「こんな世界は前衛文学か落語にしかないですよ!」> ・今回の旅の目的はアジアで未知動物を探すことだ。「未知動物」とはネッシーや雪男みたいにまだ科学的に存在が確認されていない動物のことで、巷では「UMA(ユーマ)(未確認不思議動物)」とか「怪獣」とか「そんなもん、いるかよ」などと言われている。 ・そう思って今回も相棒のカメラマン森清とともに、ベトナム、奄美大島、アフガニスタンの三ヵ所に飛んだ。 <奄美の妖怪「ケンモン」> <原始の森にひそむ物の怪> ・辛い単調な道を走るときは、同じことを繰り返し考えがちである。そのとき私は、ずっとケンモン(もしくはケンムン)のことを考えていた。ケンモンとは奄美にいると言われる妖怪みたいなものだ。沖縄では「キジムナー」と呼ばれるものとほぼ同じとされている。  ケンモンもキジムナーも両方とも「木のモノ」を意味すると何かで読んだことがある。大きなガジュマルに棲むとされている。木の物の怪なのだ。  私が初めてケンモンを知ったのは小学生のときだ。図書館で借りた『日本の伝説』とかいう本に「ケンモンとキジムナー」という章があり、ケンモンについての話がいくつか載っていた。 ・ケンモンには、夜、ひょっこり出会うという。それを恐れた村の人は、夜間の外出にはトウモロコシを持っていく習慣があった。ケンモンとばったり出くわすと、ケンモンが尻尾を振る。そのとき、こっちもトウモロコシを尻につけて尻尾のように振るのだ。するとケンモンは「あー、仲間か」と思ってそのまま行ってしまうのだという。  ケンモンは単純な性格なので、頭のいい漁師は「あんた、漁の名人なんだってね!」とケンモンをおだてて一緒に漁に連れて行く。ケンモンは気をよくして、どんどん魚を捕まえる。ケンモンは魚の目の玉しか食べないので、魚はみんな漁師のものになるのだ。漁師、ニンマリである。  しかし、ケンモンは怒らせると怖い。二人の漁師がケンモンを騙した(何をどういうふうに騙したかは忘れた)。すると、ある晩、怒ったケンモンが仲間を何十匹も引き連れ、どっと漁師の家に押し寄せて来た。慌てた漁師の一人は家の屋根に上り、もう一人は舟底のスノコの下に隠れた。屋根の漁師はたちまち見つかり、引き摺り下ろされたあげく、寄ってたかって殺された。舟底に隠れた漁師は見つからず、無事だったという……。 ・街角のタバコ屋などで「ケンモン、見たことあります?」と何気なく訊くと、「あー、最近見ないね。でも4、5年前にはよく出たよ」と言われたりしたそうだ。さらにその後輩が続けた。 「もっとすごいのは、ケンモンが実在するのかしないのか、島の人たちと民俗学者が真剣に討論会をやったって話です。結論は出なかったそうですが」 「そりゃすごいな!」  私は他愛なく驚いてしまった。地元の真剣度は、ツチノコやヒバゴン、屈斜路湖のクッシーなど日本の代表的なUMAを超えている。下手をするとムベンベ・レベルだ。ムベンベ探しに行く前、私たちはコンゴ共和国政府と権利関係で揉めた。もしムベンベを発見したり捕獲したりしたとき、我々と政府、どちらに優先権があるのかという問題だ。最終的に「写真は早稲田大学探検部が先に世界に発表する権利をもつが、捕獲された場合、その個体の所有権はコンゴ政府がもつ」という内容で契約書を交わした。 結局捕獲どころか目撃もできなかったから、“捕まらぬムベンバの皮算用”だったのだが、それくらいコンゴ政府は本気だったわけだ。私の経験では、奄美のケンモンに対する現地の人の真剣度はそれに次ぐ。  ケンモンはもしかすると未知動物と妖怪の境目にある存在なのかもしれない、とそのとき初めて知った。私の中で、ケンモンが「準UMA」という位置に格上げされたのだった。 <妖怪とUMAの間にあるもの> <「おい、フイハイはベトナムの猿人だぞ。こっちはケンモン」> ・「でもたしかに、ケンモンはフイハイに似てるんだよな」 ・意外なことに、古仁屋の町では50代、60代の人でも「ケンモン?…………あー、そんな話、昔あったねえ」と遠い目をする。単純に「知らない」と首を振る人すらいた。  探検部の後輩が「探索」に来てからすでに20年が経っている。奄美の人々が当たり前のように信じていた物の怪も、居場所をなくしてしまったのだろうか。 ・ちょうど野良作業中という感じのおじいさんがいたので、「昔この辺にケンモンっちゅうもんがおったでしょう?」と訊いてみた。すると「あー、おるよ。あの木におる」とおじいさんは指差す。縦よりも横に枝葉を伸ばした巨木があった。でもガジュマルではない。 ・92歳になるというこのおじいさんによれば、ケンモンは「貝が好物」で、「悪口を言ったり、ケンモンが棲むガジュマルやホーギの木を切ると口がひん曲がる」という。「寒い日には塩焚き小屋(海水から塩を作る小屋)へ火にあたりに来たもんだ。人間のふりをしているが、座ると膝が頭より高いのですぐわかる」そうだ。  うーん、面白い。いつも海外で未知動物の取材調査をしているときと同じ感触だ。こうなるともはやケンモンが実在しないとか、妖怪の一種だとかはどうでもよくなってしまい、夢中で会う人、会う人、片っ端からケンモンについて訊いた。 「ケンモンを見たことはないけど音は聞いたことはあるよ。夕暮れ時、外でざーっという何か大きな木か石が倒れたような音がしたんだけど、家から出てみると何もなかった」 民宿をやっている82歳のおばあさんは言う。 「子どもたちが何人かで遊んでいてね。日も暮れてきたから『もううちに帰んなさい』と言ったら、1人だけが山の中へ入って行っちゃったなんて話を聞いたね。あと、知らないうちに子どもの数が1人増えていたけど、誰が途中で紛れ込んだかわからないとかね」 こう話すおじいさんもいた。こちらは座敷童子みたいな逸話だ。 ・集会所のようなところに工事関係者らしき人が数人いた。30代から40代の若手だが、彼らは「ケンモン」という言葉に強く反応した。かなりキツイ訛りで「何年か前に古志で、校長先生が見たってさ」と言う。古志とは私が怪しいヤギに出会ったところに近い集落だ。「ケンモンが木をゆすってたんだって。先生はうちに帰ってカメラを取って戻ってきたけど、もういなかったんだってさ」  うーむ、こちらでは「若手」の間でもケンモンはまだバリバリの現役らしい。私はすごく幸せな気持ちになっていた。 ・なぜ、奄美に、そしてケンモンにこれほど惹かれるのか。私自身よくわかっていないが、一つのポイントは地元の人たちが今でもその存在を強く信じているところにあるだろう。 <「ケンモンの足跡」の写真> ・「この本がいちばん詳しいですね」恵原義盛著『奄美のケンモン』 ・明治38年(1905年)生まれの著者は、幼少時よりケンモン話が好きで、長じて自他ともに認める「ケンモン博士」となったと書いている。 ・「ケンモンの足跡」の写真だった。動物とおぼしきものの足跡が砂浜に点々とつづいている。 ・この本が出版されたのは今から25年前の1984年で、私の後輩がケンモン探しに行ったのはその5年ほどあとだ。つまりその当時は少なくとも、奄美大島では「ケンモンはいるに決まっている」というのが島民の共通認識であり、それに一分でも疑問をもつほうがどうかしていると思われていたらしい。 ・もっと言ってしまえば、「ケンモンに疑いを持つなどとんでもない」という畏れに近いものが人々の間にあったようだ。なぜならケンモンはやはり怖い存在であるからだ。  著書によれば、奄美ではケンモンの話を屋外ではしてはいけないという。ケンモンのいるところを指で差す、ケンモンの棲むところを汚すとかガジュマルなどその棲家である木を切ることもいけない、祟りがある。  著者が子どもの頃に存命だった根瀬部の村田豊長という人は、誰が見てもそれとわかる巨大な睾丸をぶらさげていたが、それはガジュマルの木を切った祟りだといわれていた。  他にも、『明治以前生まれの人にはよく、片方の目が潰れたようになっている人が見かけられたものですが、それはケンモンに突かれてそうなったものだといわれました』とか、『ケンモンに目スカレ(目を突かれて)隻眼になったという現存の人には、知名瀬に岡山信義氏(80歳)が居ます』と実名で記してもあった。岡山老人が何をして隻眼にされたかはわからないが、これはたしかに怖い。  ケンモンは恐ろしい存在である一方、「蛸をヤツデマルといってキャアキャア怖がる」とか「臭い屁をひる」とか愛すべきものとしての逸話も多い。むしろ、滑稽話のほうが恐怖譚より多いらしい。一見矛盾するようだが、これについて著者は、『愛すべきものとしてのケンモン話はそれをケンモンが聞いても祟りがなかろうと人々が安心して話せるからだ』と説明する。 ・河童もユーモラスで「愛すべきもの」として扱われているし、ベトナムの猿人フイハイも「たいていは人には危害を与えない」とされていた。 <死闘! ケンモン対マッカーサー> ・このような調子で「マッカーサーの命令」という合い言葉のもと、奄美の主要なケンモンハラ(ケンモンがたくさん棲む原っぱ)のガジュマルはほとんど切りつくされ、以降、ケンモンが現れたという話も聞かなくなった。「棲家がなくなったケンモンはどこに行ったんだろう」と村人は話し合ったという――。 ・アジアのUMAには米軍の話がついてまわる。それはとりもなおさず、米軍が常にアジアの各地に駐留し、さらにアジア諸国に侵攻、占領を繰り返してきたからにほかならない。米軍は地元の人間にとって巨大な“物の怪”みたいな存在なのだ。よそ者の物の怪と現地の物の怪は衝突せずにはいられない。「米軍ミーツUMA」である。そして現地のUMAはたいてい米軍にやられてきた。  ベトナムでは、フイハイや別のUMAバンボが米軍に射殺されたり生け捕りされたりしていた。現地の物の怪が米軍というもっと巨大な物の怪に呑み込まれていた。 <奄美の本格UMA「チリモス」> ・チリモスか――いかにも未知動物っぽい名前じゃないか。 それにしても奄美に、「準UMA」ケンモンとは全く別に、ちゃんと「本格UMA」がいたとは驚きだ。 <奄美はやはり「辺境」だった!> ・「昭和2年生まれですが、ケンモンをじかに見たことはないですね。ただ、父親の世代の人たちにいろいろと話を聞きました。相撲をとってネッパツ(発熱)したとかね」  義永さんはそう言って話し出した。  ケンモンと相撲をとっても勝てばいい。ケンモンは実は相撲がすごく弱いらしい。ところが、ケンモンは負けても「もう一丁」とかかってくる。何十匹もいて、次から次へと挑戦してくる。だから、最後は根負けして投げられてしまうのだという。  ちっこいのがわらわらと出てくるという不気味な感じが、私が昔抱いたケンモンのイメージと少し重なった。  ケンモンのいる場所は「やっぱり山の中だね」。昔の人は薪とりとかタケノコとりで山に入る時、危なそうな場所や変な感じを覚えるところでは、「あ、これは何かいるな」と察知してタバコを一服したのだという。タバコを吸わない人は塩をなめた。タバコや塩はそういう怖いものを遠ざける。そして「とうとうがなし」と神様にお祈りする。 「『よろしくお願いします』みたいな、一種の呪文のようなもんだ。山では小便をしたり、卑猥な言葉を使ってはいけないとよく言われた」  どうやら、ケンモンは山の神とごっちゃになっているようだ。 ・ご老人は断片的な話をいくつか話してくれた。  例えば、安脚場という集落では、「体が真っ赤なケンモン」を見たという人がいたそうだ。また、嘉入という集落では、ケンモンと一緒に貝拾いをしたという話が伝わっている。  ケンモンは貝が好物で貝拾いもうまい。たくさん取れたところで「蛸だ!」と騒ぐとケンモンはびっくりして逃げてしまう。「ケンモンは蛸が苦手なんだ」とご老人。 ・代わりに87歳の老人に話をうかがった。だが、この人はケンモンについてやけに素っ気なかった。「ケンモンはだいたい、若い娘や子どもが外に出ないようにと戒めるためのもんだったんじゃないかな、私は見たこともないし、あまり信じてもいない」  唯一私の興味を引いたのは、昔、諸鈍という集落で、若者が15、6人で山中にケンモンを捕まえに行ったという話だ。 「ケンモンを見世物小屋に売ったらお金になる」と意気込んだが、逆にケンモンに騙されて山で迷子になったという。「見世物小屋に売る」という俗っぽい欲が妙に生々しい。だが、ご老人は、この話にしても「詳しいことは知らないけどね」と突き放した口調だった。 <未知との遭遇> ・奄美で最も一般的な「ケンモンの火」で、おかみさんの話とさして変わらないが、「普通の子は小学生の低学年で見えなくなるが、俺は中学生になっても見えた」というから、本人は否定しても何か「特別な能力」があるのかもしれない。 ・実際、橋口さんは小学校3年か4年のころ、すでに不思議な体験をしている。 「みゃー」と呼ばれる広場で友だちとかくれんぼをしていた時、橋口少年が鬼になって、他のみんながどこかに隠れたあと、ふいに「ミツヒロ」と名前を呼ばれた。 「澄み通っていてすごく鮮明だったけど人間の声じゃなかったな」  橋口さんはドキリとすることをサラリと言う。すぐ後ろで聞こえるのでパッと振り向いたが、誰もいない。「そういう声が聞こえた時、返事をすると取り憑かれて連れて行かれる」と親や祖父母から聞いていたので、黙っていた。それっきり声はしなかった。 「それだけよ」と橋口さんは言い、口をつぐんだ。 ・「だいたい、俺の親父がよくそういう変なものを連れてきたのよ」 「変なもの?」 「うん、実久と芝の間に村道を作ることになった時もあったよな」橋口さんは妹であるおかみさんに話しかけた。 「あー、あったらしいね。私はいなかったけど」 「そうか」と言うと、「親父は測量の仕事をしていてね」と話し出した。  お父さんも他の人たちと一緒に「神山」と呼ばれる山へ下見に出かけた。「神山」は名前のとおり、ケンモンや物の怪がいることで知られていた。  お父さんは6、7人のグループの先頭を歩いていた。すると「クニミツ」と父の名を呼ぶ声がする。「はい?」と返事をして振り向いたが、誰もいない。他の人たちはずっと後ろのほうでお喋りをしながら歩いてくるのが見えた。 「何だったんだろう」と思うが、深く考えずにそのまま下見を終えて家に帰った。すると玄関に入るなり、出迎えたお母さんが「何かいる!」と叫んだ。お母さんは台所から包丁と塩をもってきて、後ろ向き、つまり父に背を向けるかっこうで塩をまき、包丁をかざした(顔を見せてはいけないのでこうするらしい)。そして呪文を唱えると、「あ、いなくなった」とお母さんは言った……。「うちの父は心やさしい人で、死んだ動物や無縁仏を見ると『かわいそうに』と思うので、よく家に変なものを連れてきて、その都度母が退散させていたのよ」  おかみさんが補足説明する。 <ケンモン話から突然UFOはないだろう> ・「で、ふと東の太陽を見たら、何かがスッと横にずれこんだ。何だろう、小さい灯りみたいなものだなと思ってたら、それがジグザグしながらものすごいスピードでこっちに来たんだ。時間にしてどのくらいだろう。2、3秒かもしれない。とにかく『あっという間』だった。  気づくと、『みゃー』の角にある家の上にこんな形をした巨大な“物体”っちゅうのかな、なにかが浮かんでいたんだよ」  橋口さんは両手で、底が丸くて横から見ると三角の形を描いた。円錐のようだ。 「びっくりしたんだけど、体を動かそうとしても動かない。動くのは目だけ。目を動かすと、自分は斜め下から見ていたはずなんだけど、いつの間にか真下から見上げていた。物体の中が丸見えで、三重の光の輪が紫というのか虹色というのか、とにかくピカピカ輝きながらぐるぐる回っていた。物体は底の大きさが広場と同じくらいあった。とにかく、でかかった。  不思議なのはね、これだけ大きな物体が飛んできたのに、木の枝が揺れていないんだ。揺れてないというか、なにもかもが止まって見えた。他の人たちもみんなビデオの一時停止みたいに止まっていた。  どのくらい物体がそこにいたかは分からない。なにしろ、俺、パニック状態だったから。短い時間だったと思う。それで物体は突然、来たのとは別の方角に飛んでいき、あっという間に消えちゃった。  それと同時に体がふっと動くようになって、みんなも動き出して、すべてが普通に戻ったんだよ。他の人たちは今起きたことにまったく気づいていないみたいだったな」 ・今でも崖の上から石が降ってくるとか、火の玉が見えるという場所はたくさんあるのだと橋口兄妹は口をそろえた。それは普通、ケンモンの仕業とされている。 ・一番不思議なのは、こんな突拍子もない話なのに、順番に聞くとそれなりにつながりが感じられることだ。最初の怪火以外の不思議な体験は橋口さんに訊いても「ケンモンと関係があるかどうかわからない」という。だが、ケンモンの火、見えない誰かの声、見えない声に答えてしまったがゆえに家に付いて来て、呪文と包丁で撃退された謎の霊みたいなもの、やはり包丁で撃退されたものすごいスピードで迫ってきた巨大火の玉、そしてやはり猛スピードで飛んできた未知の巨大な物体………。 それぞれの話がゆるやかにつながり、ケンモンからUFOに至っている。  それにしてもいったい何なんだろう。妖怪とUMAの境目を丁寧に追っていったのに、どうしてUFOにたどり着いてしまうんだろう。もう消化不良や異物感といったレベルでなく、何がなんだかわけがわからない。 <すべてはケンモンに還る> ・――ケンモンに出会ったことは? 「あるよ。濡れた貝殻が乾いた石の上にふせておいてあるのをときどき見たね」 「あー、あったね。貝が好きなんだよね」 <「白いかわいい犬に化けることもあったね」> ・「ブタに化けるって話もあったじゃない」 ――それはミンキラウヮー(耳切豚)じゃないですか?(恵原さんの『奄美のケンモン』でケンモン以外の「怪異」として詳しく触れられていた。ミンキラウヮーに出会って股の下をくぐられると、魂が抜かれてしまうとか男性機能がダメになってしまうという) 「そう、ミンキラウヮーともいうね。だけど、おんなじなのよ、ケンモンと」 「そうそう、新聞やテレビやらではね、ケンモンっていうのは河童みたいだとか、二本足で歩いて、毛が生えていてとかいうけど、それはちがう」 <「ちがうっていうかね。ケンモンには形なんてないのよ」> ・ケンモンには形がない。怪現象がすなわちケンモンだとこのおばあさんたちは言うのだ。  犬でも魚でも火の玉でも奇妙な音や声でもみんなケンモン。ケンモンはまだモノが妖怪とか精霊とか動物とか光といった存在に分化する、あるいは人間が分類する以前の存在なのだ。ならば、巨大な宇宙船のような物体だってケンモンではないか。このおばあさんたちがもし子どもの頃に同じものを見たら、「あれはケンモンだった」と言うだろう。 <自慢にもならないが、私ほど未知動物をしつこく追及してきた人間はいないんじゃないかと思う。未知動物探索20年。> ・ベトナムでは「フイハイはバナ族の人間しか見ることができない」と聞かされて途方に暮れた。奄美では87歳のご老人に「ケンモンなんて迷信だよ」と諭されてそのまま東京に帰りたくなった。アフガニスタンでは「そんなもんを探しに来たのか」と現地の人に呆れられて赤面した。 ・フイハイは精霊とも妖怪ともつかない存在だった。ケンモンは精霊や妖怪を飛び越え、宇宙に通じていた。ペシャクパラングは荒廃した近未来を舞台にしたSFに出てきそうな動物だった。にもかかわらず、現地の人たちの多くはそれが超自然的な現象とは考えていない。あくまで「自然」の存在だとしている。 ・この3つの旅で、途中から私の頭にこびりついて離れなかったのは、柳田國男『遠野物語』だった。 『遠野物語』は民俗学的な記録ではない。遠野出身の一青年が自分の知っている話を柳田に語って聞かせたものだ。天狗や川童、幽霊などの物の怪や怪異現象がふんだんに登場するが、これはみな昔から伝わる話でなく、柳田國男が生きていたのと同時代の話である。「菊池弥之助という老人が大谷地を通りかかったとき」とか、「松崎村の川端の家では」など、たいてい体験者の具体的な名前や事件の起きた場所の名前が記されている。  私は最初に読んだとき、「現地に行けばいいのにな」と思った。現場第一主義で、一次情報しか信用しない私なら絶対にそうする。ところが柳田は動かなかった。ただ青年の語る山の人の話を簡潔にまとめた。そして序文に「願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と書いた。  不思議な話を、不思議なままに読者の前に放り出したのである。 ・だが、柳田はその後、妖怪や怪現象を民俗学的に研究するようになる。山の人の怖さを解体し、自分たちを平地人の知識で理解しようとした。「一つ目小僧というのは、神に供える魚が時代とともに変化した歴史的産物である」とか、山の人の力を無化する一種の武装解除ともいえる。なぜなら理解してしまえば、もう「戦慄」させられることもないからだ。どうやら、柳田國男は日本中の村々を武装解除して回り、二度と『遠野物語』の世界に帰ることはなかったようである。  私は柳田國男と逆の道をたどっているような気がする。初めはあくまで謎の生物を科学的にアプローチし、次に現地の伝承や習慣を考慮したうえで民族学的に理解しようと努めた。だが、今回、ベトナムと奄美、アフガニスタンをうろついているうちに、だんだんそれもわずらわしくなってきた。小賢しい気がしてきた。  聞いたことをそのまま投げ出したくなった。つまり、平地人(もしくは都市住民)を「戦慄せしめ」たくなったのだ。 <高野秀行  1966年東京八王子生まれ。> ・早稲田大学探検部当時執筆した「幻獣ムベンベを追え」でデビュー。タイ国立チェンマイ大学講師を経て、辺境作家になる。 『クマ問題を考える』 野生動物生息域拡大期のリテラシー 田口洋美     山と渓谷社   2017/4/21 <捕獲と威嚇のメッセージ性> ・現在、私たちが行っているツキノワグマ対策は、出没や被害の現場での「対処駆除」、いわゆる対症療法が主体である。被害に遭えば捕殺し、市街地に出てくれば捕殺する。当然のようであるが、実は肝心なことが抜け落ちている。それはクマの出没を減らすための努力である。その努力は、クマたちにこの一帯から先には行ってはいけない、人間の生活空間に出て行けば極めてリスキーである、ということがわかるように仕向ける努力のことである。 ・現在のツキノワグマの推定棲息数(全国に1万6000頭前後が棲息している)がいるとすれば、年間200頭から300頭のオーダーで捕獲をつづけたとしても対処駆除は永遠につづけていかなければならない。それは被害に遭いつづけることを意味している。被害に遭いつづけることが駆除の持続性を保障するという、現在のジレンマから一向に抜け出すことができないのである。このようなジレンマの持続性を喜べる人はほとんどいないだろう。被害に遭うのは農林業に従事する人々に限られたことではない。ランダムである。散歩やジョギング中に、あるいは登下校中にクマと遭遇することもあり得る話である。実際にそのような事故が起こっている。 ・問題は、ツキノワグマに限らず、野生動物たちに人間の側のメッセージをどのように伝えるか、なのである。そのための苦肉の策の一つとして行われているのが、新人ハンター(猟師やマタギ)の養成ということになる。東北地方に限って言えば、この5年あまりのなかで地域の窮状を見かねてハンターを志してくれる人々は微増とはいえ増えてきている。しかし、増える以上に熟練猟師たちの引退も増えているのである。このような新人養成は、マンパワーの維持にほかならないが、同時に捕獲と威嚇という手法、しかも野生動物たちに伝わるメッセージ性のある手法をどのように実践するか、が問われることになる。 ・例えば、現在、東北地方にはマタギと呼ばれる近世以来の歴史と伝統を有する猟師たちは3000人程度存在すると見込んでいるが。このなかで経験に裏打ちされた高度な現場判断ができる猟師は500人程度に減少しているだろう。いかに東北地方といえども日常の時間を自由にでき、毎日のように山を歩いていられる人はほとんどいない。多くの人は職を持ち、猟で山に入ることが許されるのは土日だけという場合が大半を占めてきている。このような状況で、被害や出没が起きた時に直ちに現場に走れる猟師はわずかしかいない。  なかには、春のツキノワグマの生息調査や子察駆除の期間に有給休暇を溜めておいて出猟するという熱心な猟師もいるが、極めて少数である。むしろ、いくらそのような有給休暇の取り方を求めても許してくれる企業はまだまだ少ないというのが現実であろう。 ・地域の山岳や沢、地名や地形に詳しく、単独で山々を歩け、クマに関する情報を収集し、クマたちの動きの先が読める猟師は育ちにくい時代である。現在、猟友会を支えている熟練した猟師たちは、ほとんど1940年代から1950年代前半に生まれた人たちである。この人たちはかろうじて親の世代の猟師たちが生計をかけて狩猟に携わっていた当時、親や近隣の先輩たちから動物の追い方など、伝統的な技術や地域の山々に関する知識を継承できたぎりぎりの世代である。この人たちが元気な内に、若い新人ハンター付いて学んでいけば10ぐらいの経験で相当の知識と技術をものにすることも可能であろう。しかし、現場を差配し安全を保ちつつ大型野生動物と向き合うにはさらに10年という歳月がかかる。この時間の短縮は難しい。バイパスはないのである。   

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