野安押別命とは、ノアの方舟のノアのことだ。方舟に乗せる動物を選んだので、押別命なのだろう。母宇世は『旧約聖書』の十戒のモーゼ、伊恵斯はもちろんイエス・キリストである(3)
<「少年ケニヤ」の原作者もUFOを目撃した>
・そして、三島以上にダイレクトに、CBAの思想に共鳴し、それを作品中に反映させた、ある一人のクリエイターを紹介しておこう。その名は山川惣治。私たちの世代(昭和30年代生まれ)には懐かしい、かの『少年ケニヤ』の原作者である。
・そんな彼がUFOに、それも最も過激な思想のUFO団体であったCBAに、かなり深い共鳴を寄せていたというのだから驚く。
平野馬雄『空飛ぶ円盤のすべて』(高文社)によれば、山川氏はあのハヨピラのUFOピラミッド建設にまで関わっていたというのである。平野氏の本には、
「わたしが始めて空飛ぶ円盤と呼ばれている宇宙船を見たのは、昭和36年の6月である」。という、山川のUFO体験談が雑誌『たま』2号からの転載という形で紹介されている。
・山川はもともと円盤に興味があり、実在を確信して『少年エース』という作品内に円盤を登場させたところ、CBAから接触があり、彼らから宇宙人とのテレコン(テレパシー・コンタクトの意)を勧められたという。まず山川夫人が風呂上りに自宅屋上でテレコンをしてみると、果たして円盤がやって来た。だが、家族みんなで屋上へ駆け上がってみると、もう消えている。山川だけ仕事に戻るが、今度は屋上に残っていた夫人・長男・長女・次男・次女の5人が円盤を目撃。だが、呼ばれて山川が上ってみるともう消えている。
これが繰り返されて、その夜は円盤が7回飛来したが、結局彼だけは円盤を見ることができなかった。しかし、その2日後、彼もやっと、円盤の目撃を実現させる。
・乳白色の洗面器ほどの大きさの円盤が幻のように目の前の空をかなりゆっくりと飛んでゆくのを目撃(その夜、円盤は12回も飛来したという)して以来、山川は円盤を何度も目撃するようになる。あるときはダイダイ色に輝き、青白く輝き、乳白色に見えるときもあった。その速度は音速の10倍以上であろう。空を見上げる視界のはじからはじまで、にゅ―っとまっすぐに横切る。または中天から垂直に降下したり、空中で円を描いて飛び去ることもあったという。
・山川自身はCBAの説に沿って、空飛ぶ円盤を以下のように考えていたらしい。
「円盤に乗って飛来する宇宙人は非常に美しい人間」
「発達した遊星の人々は、宇宙連合をつくり、大宇宙船を建造し、それに各遊星の人々がのりこみ、格納庫に円盤をつみこみ、地球の近くの大気圏の宇宙に停滞して地球を観測している」
「すでに戦争という野蛮な時代を終わり、病気もなく、皆長生きで若々しいといわれる宇宙人たちは、宇宙時代にとりのこされた野蛮な星地球を心配して観測している」
「宇宙人たちは地球に愛の手をさしのべ、戦争をやめ、核爆発をやめるよう、地球人と接触しようとつとめている」
<UFOから生まれた漫画『太陽の子サンナイン』>
・子供たちに強大な影響力を持つ山川の、CBAのコンタクト思想の傾倒は、他の実直な空飛ぶ円盤研究家たちに実に苦々しく、また脅威として映ったことだろう。しかし、結局山川は、CBAに同調したまま、その影響のもとに、『太陽の子サンナイン』という大作までを世に送るのである。
・『太陽の子サンナイン』は、1967年に、集英社コンパクト・コミックスの一環として、全3巻で発行された作品である。舞台は、南米・ペゼラ国という架空の国。モデルはベネズエラであろう。実際、作中で主人公たちは国境を越えてブラジルに行ったり、コロンビアに行ったりしている。
・宇宙人の文化が地球にもたらされると、戦争はなくなり、病気もなくなり、人間は神のような存在になる(これを大宇宙主義と言うらしい)。これでは戦争で儲けるブラック・シンジケートは商売あがったりなので、ゴステロ大統領に資金を提供し、水爆ロケットを建造させ、当時戦争中のベトナムに撃ちこんで第3次世界大戦を起こそうという計画を立てる。陽一はグレート・マスターから、ブラック・シンジケートの野望を砕くようにとの指令を受けて、水爆の破壊に見事成功。ペゼラ国の民衆革命も成功するが、ブラック・シンジケートはまだ残っている。最後は円盤からのメッセージで、
「地球はブラックにねらわれている。第3次世界大戦がおこれば地球はほろびるのだ。おまえの母の国、日本へかえれ!日本は神にえらばれた国だ、宇宙船の地球への友情をただしく日本の人々にしらせるのだ」
という言葉が伝えられ、その命に従い、ジェット機で日本に向かう陽一を、富士山上空で、宇宙母船群が見守っているというシーンで終わる。
・この作品を初めて見たとき、“あの”山川惣治が、このようなトンデモ作品を描くのか、と、しばし呆然としたことを覚えている。しかし、山川氏もまた、ハヨピラ公園の完成記念式典で、楓月悠元氏などと同じように、やはり円盤の乱舞を目撃しているのだ。
「青空に次々と浮かぶ大宇宙母船団の出現にはどぎもをぬかれた。『C・B・A』の発表によると、この日現れた母船艦隊は百隻以上だったという。青い空にすーっと細長い円盤形の巨大な物体が次々と現れるのだ。一見雲かと見まがうが、正確な円錐形で、大変細長く見える。しばらくすると、すーっと消えてしまう。と、左手の空に次々と母船団が姿を現わす」
………山川氏の目に映った、この円盤群は、果たして何だったのだろう?先に述べたように、昭和30年代後半からの山川氏(を筆頭にする絵物語というジャンル)は、漫画にその王座を奪われて、衰退の一途をたどっていた。
・荒井欣一氏の証言(『UFOこそわがロマン』)によれば、このハヨピラ建設前後から、松村雄亮自身、背中、腰部に激痛が起こり、四肢に麻痺が広がる“根性座骨神経痛”という難病にかかって苦しんでいたという。氏がもともと腺病質タイプで多病だった、という証言もある。UFOの幻視は、まず自分たちのいるこの世界における、我が身の不遇感から始まるものなのかもしれない。
『ものしりUFO事典』
(平野威馬雄)(日本文芸社)1979/1
<“宇宙友好協会(CBA)の歩み”から>
・CBAという円盤研究グループがあった。1958年そのグループの主宰者、松村雄亮が再三、宇宙人に会い、いろいろ会話を交わしたという。堂々たるリポートが表題のパンフレットに出ている。
・それは7月10日の夜、謎の微笑を残して消えた彼女自身であった。しばし口もきけず、茫然と立ち尽くしている松本に対し、彼女は、静かにうなずきながら誘導するごとく先に歩きだした。二人は野毛の喫茶店「ヨアテモ」で相対して座った。北欧系のある種の神秘をたたえた美しい顔からは、終始微笑が消えなかった。年の頃は21、2歳であろうか。ワンピースの上に首から下げた直径5センチほどの装飾品が絶えず七色に光り輝いていた。
・それから数日後、松村は、円盤に乗せられたり、宇宙人の長老が着陸したのを在日宇宙人40数名とともに迎え大変な問答をしている。
松村:「救われるとはどういう意味ですか」
長老:「あなた方が、考えるように肉体が生き残るというのではない。肉体は着物のようなものである。たとえ、肉体を失っても救われる人は他の天体に生まれ変わる。救われない人は、霊魂のまま宇宙をさまようでしょう」
『5次元入門』 (アセンション&アースチェンジ)
(浅川嘉富) (徳間書店) 2008/2/7
<宇宙船による空中携挙>
・渡辺大起氏は『宇宙船天空に満つる日』を著しアセンションという宇宙ドラマのクライマックスを劇的に、適格に描写している。
・渡辺氏は、宇宙人による「空中携挙」によって宇宙船に引き上げられた後、宇宙母船や他の遊星で次元上昇を果たし、アセンション後の新生地球へ帰還するというケースを説いている。
・聖書では「時の終わり」にイエスが再臨し、善なる者と悪人とを振い分けた後で、善人を天に引き上げるとあるが、この「天に引き上げる」行為が空中携挙である。渡辺氏はそれを行うのはイエスではなく、宇宙からやって来た異星人たちだと考えているのだ。
・UFO問題に関心がある方ならご存知だと思うが、渡辺氏はUFO研究に古くから携わり、今から50年ほど前に発足した我が国で最も古いUFO問題の研究会「宇宙友好協会」(Cosmic Brotherhood Association)の主要メンバーだった。実は私もまだ高校生の頃にこの研究会に最年少メンバーとして入会していたことがあり、渡辺氏とは一緒に活動させていただいた間柄である。
・通称CBAと呼ばれていたこの研究会は、世界中のUFO(当時は空飛ぶ円盤と呼んでいた)の目撃例や研究内容を紹介する機関紙を発行する傍ら、講演会や宇宙人とのテレパシー交信会などを企画する、当時としては大変先鋭的な研究団体であった。
・テレパシー(想念)で呼びかければ、地球周辺に飛来している空飛ぶ円盤と交信できるということを教えられた私は、冬休みで帰省の折に、庭先で夜空に向かって一生懸命に呼びかけたものである。今考えればわれながら純真な青年だった。「ベントラ、ベントラ、地球周辺を航行中の宇宙船の皆さん、私のテレパシーを受信したら、上空を飛んでその姿を見せて下さい」そう念じながら真冬の夜空に向かってテレパシーを送り続けた。ちなみに「ベントラ」とは宇宙語で宇宙船のことである。
・そして、その後で飛んで見せてくれたのが、あのジグザグ飛行だったというわけである。それは地球製の飛行機や流れ星、風船などでは絶対にあり得ない飛び方で、宇宙船であることを確認できる最適な飛行方法であった。
・私は、それ以来、宇宙には人類より知的レベルがはるかに高い生命体が存在し、地球に飛来していることを疑ったことは、一度もなく、この夜の出来事は宇宙船と宇宙人の存在を確信するに十分な体験だった、と同時に私の人生を決定づける運命的な体験でもあったのだ。
『宇宙人についてのマジメな話』
(平野威馬雄) (平安書店) 1974年
<母船内部の円盤発着場から降り立ち、廊下へ出ると再び地上に降りたのではないかと錯覚するほどであった。それは渋谷か新宿の大通りの観を呈していた>
<CBA(宇宙友好協会)>
・CBAの元祖、松村雄亮という人の世にもフシギな足取り。
<直接コンタクトが始まる(1958年)>
・そこで、二人は野毛の「ヨテアモ」という喫茶店で相対して会った。北欧系のある種の神秘をたたえた美しい顔からは、終始、微笑が絶えなかったー年の頃は、21、2歳であろうかーワンピースの上は首からさげた直径5センチほどの装飾品が絶えず7色に光り輝いていた。
・ここで、彼女は、自分は最近日本へ配属された宇宙人であること、現在横浜に3人、東京に4人の宇宙人が来ていること、キャップは東京にいることなど打ち明け、あなたは東京のキャップに会うようになるだろうといった。
・左肩をポンと叩かれた。振り返ってみると品のよい外国の紳士が立っていたという。一目見ただけで、ああこの人は宇宙人だ・・・と分かった。これは私にとっては新しい経験だった。見ず知らずの一人の人間を一目で宇宙人とわかる・・・これもやはりテレパシーの一種だったらしい。
さて、宇宙人は松村を近くの喫茶店に連れて行った・・・17日に桜木町である美しい女性に言われたことが早くも実現したのだ。この人が、日本における宇宙人のキャップだった。
・直径30メートル位の円盤の乗員は12名で、一人だけが日本語を上手に話した。他は、皆英語しか話せなかった。
・母船内部の円盤発着場から降り立ち、廊下へ出ると、再び地上に降りたのではないかと錯覚するほどであった。それは渋谷か新宿の大通りの観を呈していた。ただ歩いているのが外人ばかりで、すれちがっても誰も振り返ろうともしない。
・三々五々、散歩するごとく、また用事ありげに通行しているのである。この大通りは母船の中央を貫き、長さ2000メートルはあると思われる。
・これで、日本におけるただ二人だけしかいない、コンタクティーの素描を終える。ダニエル・フライやベサラムやアダムスキーやその他の多くの外国のコンタクティーの話を信じない人は、この日本の二人の話も信じないだろう。信じる信じないは、どうでもいい、ただこういう体験をしたと、物語った二人が日本で今、健在だということだけを記せばいい。
『円盤に乗った青年のマジメな話』
(昭和49年、北海道宇宙人事件の真相)
(平野威馬雄) (平安書房) 1974年
<ニコロでの記者会見>
田中:「小人の丈がだいたい1メートルくらい」
<タコのような宇宙人>
平野:「こんな感じ?・・・へえ、こんな、タコみたいなの?・・・そして、こんな、体中にブツブツのイボがあったの?」
田中:「ブツブツがいっぱい体中にあったのです」
藤原:「このブツブツは、ずーと体中、イボみたいになっていたんです」
平野:「ぼくもずいぶん宇宙人について書いたし、いろんな宇宙人の画も見たが、やっぱり、これと似ていたな」
<私の住む町に円盤か!?>
・よく『狐つき』に間違われたアブダクション(誘拐)・ケース
<藤原由浩君の独白><動き始めたマスコミ>
・藤原君を無理矢理、12チャンネルのテレビに出演させることになり、25日に数名のUFO関係者が集まった。四国までわざわざ介良村での怪小型円盤飛来の顛末を調べに行った林一男君、UFOの権威・荒井欣一氏、宇宙人らしいものをカラーで撮った浅野良雄君、日本大学教授・﨑川範行氏、そして藤原君と小生が出た。『奥さん二時です』という川口浩司会の番組だったが、ほとんど時間がないので、何もいえずかえって誤解をまねくことになるのではないかと終って思った。
が、とにかく出演後、放送局のロビーにNTVの矢追純一さんらがいてくれて、日本テレビか矢追さんの指揮のもとに、本格的な取り組みをして、適切な方法で取扱、放送ということに話が決まった。
『写真で見る日本に来た?!UFOと宇宙人』
(矢追純一)(平安)(昭和51年)
<北海道函館市にはUFOの基地がある?>
・北海道の南端、函館市をのぞむ小さな港町、上磯では、しょっちゅうUFOが目撃されるそうだ。
・地元でもUFO目撃者の数が多い。
・吉川さん親子も白昼、巨大なUFOが頭上を通過して行くのを見た。それはまるで巨大な扇風機が飛んでいるようだったという。丸い円盤型のUFOで、全体がものすごい勢いで回転しているように見えた。そして、アッという間に急速にスピードをあげ、海上に消え去ったという。
・小坂さんたちは、ひんぱんに現れるUFO基地を探してやろうと毎晩のように近くの山々を探検してまわった。そして、ついに大沼山近くの、通称、貧乏山という山の裏側にUFO着陸跡らしい巨大な円形の焼け焦げを見つけたのである。
・グループのメンバーは毎晩交替で見張ることにした。そして、UFOらしい大きな怪光がオレンジ色に光りながらこの貧乏山を出入するのを8ミリにおさめることに成功したのである。
『週刊 世界百不思議 2009年3・12/19合併号』
この世は「謎」と「怪奇」に満ちている 講談社
<UFOを信じた知識人たち>
<自宅に観測所を作り研究会員になった三島由紀夫(1925-1970)>
・作家、三島由紀夫は日本初のUFO研究団体「日本空飛ぶ円盤研究会(略称JFSA)」の会員だった。
・1960年代頃、彼は「美しい星」というタイトルの、自ら宇宙人だと信じる一家の小説を書いているが、その中には、JFSAの機関誌名「宇宙機」という言葉を登場させている。また彼はJFSA発足の2年後に結成された「宇宙友好協会(略称CBA)」が主催したイベントにも参加している。これは仲間と手をつなぎ、「ベントラー、ベントラー」とUFOに出現を呼びかけるというものだが、残念ながら目撃にはいたらなかった。
・ちなみに、UFOへの呼びかけ文句「ベントラー」とは宇宙語で、宇宙船の意味だという。
『宇宙人についてのマジメな話』
(平野威馬雄)(平安書店) 1974年
<宇宙人に会った日本人>
・最初の人、安井清隆(仮名)さんは、ぼくと非常に昵懇な友達なので、本当なら文句なしに「これは事実だ」と声を大にしていいたいのだが、生まれつきスペプティックにできているので、おいそれとは太鼓判を捺すわけにはいかない。次の松村雄亮さんも、ひところ、かなり親しくおつきあいをしていたので、この人についても文句なしに肯定したいのだが、やはり、そのまま納得するにはへだたりがある。だから伝えられ叙述されたままにここに移し判断は、皆さんにお任せすることにした。
・この安井清隆(仮名)の予告はやはり円盤狂の作家、北村小松氏(故人)をへて、三島由紀夫氏(故人)に伝えられ、三島氏は深夜の仕事をしながら円盤の出現の時刻を待ち受けたのである。その時の経験を昭和35年の“婦人倶楽部”9月号にこう書き残している。
「・・・(午前)4時半になると、待ちかねて仕事も手につかないでいた。私は、妻を叩き起し寝ぼけ眼の彼女をうながして屋上へ昇った。私は、双眼鏡を肩にかけ、妻はカメラを携えていた。・・・5時25分になった。もう下りようとしたとき、北の方の大樹の陰から一抹の黒い雲が現れたーすると、その雲が、みるみる西方へたなびいた。・・・・妻が『あら変なものが・・・・』といった。みると、西北の黒雲の帯の上に、一点白いものがあらわれていた。それは薬のカプセルによく似た形で左方が少し持ち上がっていた。そして、あらわれるが早いか同姿勢のまま西へ向かって動き出した黒雲の背景の上だからよく見える。私は、円盤にも葉巻型というのがあるのを知っていたから、それだな、と見たー」
安井さんの予告通り、空飛ぶ円盤が現れたのだ。
観測者は、三島由紀夫氏、今となってはその生きた証言はきけないが、三島氏がウソを書くはずがない。今年に入ってからも円盤実見のケースは無数である。カメラでとらえた人も百人を超えている。だが、円盤に乗った宇宙人と会い、そのうえ、円盤にのって“あの星”へ行ったという地球人は、世界広しといえども、安井さん一人であろう。
『進化する妖怪文化研究』
小松和彦 編集 せりか書房 2017/10/1
『<洪水怪異伝承の構造と意味 小松和彦>』
<「経験知」としての土地災害伝承>
・近年の日本列島は、大地震や集中豪雨に襲われ、甚大な被害を被っている。そのつど、私たちは自然の計り知れない猛威に恐怖し、その猛威からいかに身を守るかに思いをめぐらす。そしてその過程で、日頃は忘れていた災害をめぐる民間伝承や先人が残した警句を思い出すこともあるのではなかろうか。例えば、大地震や大津波に襲われると、その後に過去の地震や津波の伝承が掘り起こされるのである。
いま少し具体的な例を挙げよう。2014年の8月の集中豪雨では、広島市宇佐南区八木地区で多くの犠牲者・被害が出た。土地の伝承によれば、被害があった地域は、もともとは「蛇落地悪谷」と呼ばれ、大雨が降れば水が出るので、人が住むことを避けてきた地域であった。また、この地域には、中世の在地武将による悪蛇退治の伝承も語り伝えられていた。災害報道ではしきりにこの伝承が取り上げられていたが、こうした伝承があるにもかかわらず、行政や住宅開発業者は、そのことを知ってか知らずか、住宅開発を進めた結果、今回のような悲惨な事態になったのであった。
・同じ年の7月には、長野県南木曽町の梨子沢で台風8号による豪雨で土石流が起こり、死者1名、全壊家屋10戸の被害をもたらした。被害が少なかったことや、その後も山口県岩国市(8月6日)、兵庫県丹波市(8月17日)、上述の広島市の土砂災害が続いたこともあって、それほど注目されなかったが、一連の報道のなかで、やはり山崩れ・土石流災害に関する土地の伝承が取り上げられていた。この地域では、山崩れ・土石流(山津波)のことを「蛇抜け」と呼ぶ。報道関係者が注目したのは、1953年7月に発生した南木曽町伊勢小屋沢の土砂災害を記念するために建立された「悲しめる乙女の像」(蛇抜けの碑)である。この碑には「白い雨が降るとぬける 尾先 谷口 宮の前 雨に風が加わると危い 長雨後、谷の水が急に止まったらぬける 蛇ぬけの水は黒い 蛇ぬけの前にはきな臭い匂いがする」という、土石流発生の前兆に関する俚諺(経験知)が刻まれていたからである。一昨年の土石流発生時にも、ここに書かれていたことと同じ前兆があったのだ。
・この二つの事例は、民間伝承(経験知)を知ることの有効性を端的に物語っている。それをふまえて生きることによって、自然の猛威を完全には予防することはできなくとも、その被害を少なくすることができるのである。
さて、このように述べると、だから民間伝承をもっと研究しよう、それは社会に役立つ学問なのだ、という論調になりがちである。しかし、こうした地元の民間伝承にも説き及ぶ報道を聞きながら、民俗学者の端くれとして、内心忸怩たる思いになっていた。というのは、それらの報道のなかで、防災研究者は登場しても、ついに民俗学者がコメントを求められることもなければ、民俗学の災害伝承研究の蓄積に言い及ぶこともなかったからである。
少しでも民俗学をかじったことがある者ならば、民俗学が厖大な民間伝承を記録し、そのなかにはさまざまな災害伝承も含まれていることを知っているはずである。にもかかわらず、報道関係者には、民俗学者や民俗学という学問にまで思いが及ばないのだ。
それはなぜだろうか。ひと言でいえば、民俗学という学問研究の低調さが関係しているのだろう。別の言葉でいえば、社会に向けてその成果を発信する力が弱いのである。
<初心に立ち返って考える>
・この論文の眼目は、龍宮童子譚などの背景には、民間伝承として広く浸透している「童子」の信仰があるということを明らかにしたものである。
しかし、その分析のなかで浮かび上がってきたもう一つの説話的形象があった。「翁」である。龍宮童子とは、水界に薪や花などを贈った見返りとして「水界の主」(龍王)から与えられた、富を生み出す醜い童子のことである。その「水界の主」は「翁」として語られている。この「水界の主」のイメージは、「白髭水」伝説のなかの、「洪水のさいに出現する翁」とも関連があるのではないか。例えば、新潟県古志郡東谷村栃堀の伝承では、昔、大洪水のとき、白髭の老人が現れ、夜明けに村人に大声で、「大水が出るから早く逃げよ」と知らせた。この老人の言葉を信じた者は助かり、信じなかったものは多くは死んだという。大正15年の栃尾郷の大洪水も白髭水の類だと村人は語っていたという。民俗学者の宮田登は、この伝承について、「終末を予言する白髪、白鬚の老人とは一体何者なのか素性は総て不明である。むしろ諸事例から判断すれば、終末の危機感の中から生まれた共同幻覚の一種ではなかろうか」と述べていた。私は、この見解に対して、「その素性は龍宮の龍王のイメージと関係しているのではなかろうか」と解釈したわけである。
・こうしたこともあって、その後、機会あるごとに洪水にかかわる怪異伝承を集めてきた。ところが、集めれば集めるほど、その種の多様さに驚かされることになった。多様性に目がくらむと分類が細かくなってゆく。右の「白髭水」という分類もその一つであるが、白髭の老人が登場しない洪水伝説では、例えば洪水の最中に怪しい声がする伝承は、その声が「やろか、やろか」ということが多いので「やろか水」と分類されて、同じ洪水伝承でありながらも「白髭水」から切り離されて分類されてきた。
<どこに着目するのか>
・私が着目するのは、「洪水伝説」のうちでも、その伝承のなかに「怪異」と呼びうる要素が含まれている伝承である。
今日、大雨、洪水、大日照り、地震、津波、噴火などは「自然現象」とされている。そしてそれがもたらす災害は「自然災害」である。ところが、かつてはそのような自然現象それ自体が「超自然現象」として、もしくは「超自然的存在」によって引き起こされるものであるとみなすことが多かった。そして、それらの伝承のなかには、そのことを示す「怪異」が語り込められていた。例えば、先述の「白髭水」では、洪水発生を告げる「白髭の老人」である。たしかにこの「白髭の老人」は、分類の指標となるだろう。「白髭の老人」が登場する他の地域の伝承があれば、それらをまとめたくなってくる。しかし、この分類の難点は、「白髭の老人」ではない存在が洪水の危険を告げるような場合には、この分類から排除されてしまうことになる。
しかし、話の展開という点でいえば、例えば、「白髭の老人」を「見たことがない童」とか「白い動物」とかに変えても、伝承それ自体の「構造」を損なうことはない。つまり、「洪水の前に洪水を予告する神秘的存在が登場する」というふうに抽象化することで、同様の伝承群を重ねることができるはずなのである。
もちろん、地元の信仰伝承では、「白髭の老人」であることに意味があるのだろう。それが、例えば「白装束をした小さな人」になったならば、地元の信仰伝統にそぐわないために解読が不可能になるかもしれない。しかし、理論的には、伝承の物語構造(統辞的構造)の全体の保存という点では、「白髭の老人」が「白装束をした小さな人」に置き換わっていてもいっこうに問題がないはずである。
<洪水が起こらなかった伝承と洪水が起こった伝承>
・(長野県木曽郡開田村)「白装束をした子どものような小さな人が突然訪れて、オリコシの山が崩れて神田は埋め潰されるから、安全祈願な場所に逃げなさいと告げた。この言を信じて、村人が安全な場所に避難したあと、山が崩れて、神田の村は壊滅した」
<水界の主・洪水・異人>
・さて、いよいよ、これら「洪水怪異伝承」群の解読・魅力について議論することにしよう。これまで紹介してきた事例のなかでも、「他言禁止という条件がついた洪水発生情報」が組み込まれた物語は、とりわけ聞く者の心を揺さぶる。というのも、洪水から村人を救うために、水界の主から洪水を起こる情報を得た者が、命を捨ててでも村人を救おうと約束を破り、情報を村人に漏らし、結果として命を落としてしまうからである。
・しかし、いくつか気になることがある。その一つは、水界の主から洪水を起こすことを教えて貰うのが「盲目」の「座頭」(琵琶法師)であり、その情報を村人に告げて犠牲になる者もやはり「旅」の座頭として語られることが多い、ということである。
『<柳田國男の妖怪研究 「共同幻覚」を中心に 香川雅信>』
<『妖怪談義』>
・昭和31年(1956)に刊行された柳田國男の『妖怪談義』は、日本民俗学の学父御自らが著した妖怪研究の書物として広く知られている。実際に、柳田の書いたもののなかで最も入手しやすく、かつ長く読み継がれている著作であろう。また、コナキジジ、スナカケババ、ヌリカベ、イッタンモメンなど、水木しげるの漫画や妖怪図鑑に描かれた妖怪の多くが、この『妖怪談義』から採られたものであり、その意味では現代日本人の通俗的な妖怪観に大きな影響を与えた著作でもある。
この『妖怪談義』の重要な論点とされてきたのが、「妖怪は人々の信仰を失って零落した神である」という仮説、「零落説」である。だが、この説は現在では厳しい批判にさらされ、ほぼ否定されていると言ってもいいだろう。
<妖怪研究の三つの画期>
・もっとも、柳田の怪談研究の根本には、「神隠し」への関心があった。その最初の仕事である『近世奇談全集』に収録された奇談随筆には、いずれも「神隠し」の話が含まれており、『遠野物語』の「神隠し」のエピソードも有名である。明治43年(1910)に『中学世界』に発表された談話「怪談の研究」では、「日本の如く俗に云う神隠し、女や子供の隠される国は世界中余りない。これが研究されて如何なる為めか解ったならさぞ面白いだろう」と述べている。
<「共同幻覚」探求の意味>
・ここで「言論」が「共同幻覚」と同じ次元で扱われていることに注意すべきであろう。ここで問われているのは「言論」の中身ではなくその「形式」、いわゆる「声の大きな」もっともらしい意見に流されがちな日本人の気質である。
つまり柳田にとって「共同幻覚」の探求とは、「共同幻覚」がいかなる信仰や不安・恐怖により生み出されたのかを探るのと同時に、日本人がどのような条件のもとでたやすく共同の感覚に陥ってしまうのかを見極めようとしたものではなかっただろうか。そして柳田は、その拘束を脱するには「個人教育」ではなく「社会改革」が必要だと考えていたのである。しかし、時代はそうした柳田の考えとはまったく逆に、全体主義的な傾向を強めていき、泥沼の戦争へとなだれ込んでいくのである。
<「零落説」再考>
・このように柳田が、一種の「社会問題」として妖怪を考えていたというふうに捉えなおしてみると、いまや陳腐なものとすら思われる「零落説」も、まったく別の相貌を見せはじめる。
以前から気になっていたのだが、柳田が「零落説」について述べている文章を読んでいると、やや奇妙なこだわりのように見える部分がある。それは、妖怪によって怖い目に遭わされるのは、決まってそれを否定しようとした人間であった、という一節である。
・柳田が指導する郷土生活研究所が、日本学術振興会の援助を得て昭和9年5月から12年4月にかけて行った「山村調査」では、柳田により百の質問項目が設定されたが、その一つに「世の中に不思議な事は無いと威張って居て、ひどい目にあったという話はありませんか」という項目がしっかり入っていることからも、これは柳田が特に注意していた点であったことが推察される。
・だとすると、柳田の「零落説」は、古い信仰が忘れ去られ、形を変えて妖怪になる、という点よりもむしろ、元の意味が忘れ去られ形を変えてもなお、古い信仰が残り続けているのはなぜかを問うことに重点が置かれていたのではないだろうか。だからこそそれは「現代の問題」となり得たのだ。
柳田は最晩年の昭和35年(1960)、「日本民俗学の退廃を悲しむ」という題で知られる講演を行い、「お化けの研究」などの趣味的な研究に民俗学徒たちがうつつを抜かしている現状を痛烈に批判したとされているのだが、『妖怪談義』がやはり晩年の昭和31年(1956)に刊行されていることを考えると、問題は「お化けの研究」それ自体ではなかったことは明白である。柳田にとって「お化けの研究」は、人々を自律的な思考から遠ざける「古い信仰」の拘束からの解放という、経世済民的な意図を持っていた彼自身の民俗学の最も重要な部分だったのである。
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