太古より、知念間切の久高島には「異種の民」がいた。彼らは皆、ヒザからくるぶしにかけてとても細く、かかとがない。足の甲は短くて足の指は長く、そのかたちは手のひらのようになって、地に立つ。(2)
<キンタカコウ>
・宮崎県東臼杵郡西郷村(現・三郷町西郷)でいう憑き物。
・キンタカコウは犬神のようなもので、人に食らいつくとされるものの、犬神よりも位は高いという。子どもがキンタカコウに憑かれると大人でも知らないようなことを口走る。また、キンタカコウは家筋によって憑くとされ、キンタカコウに憑かれた者は風持ちと呼ばれる。
風持ちであるが、キンタカコウに憑かれた人のみの呼称ではないようで、犬神持ちも風持ちと呼んでいる。ヒジリ神と呼ばれる祈禱師がおり、ヒジリ神たちは風持ちを落とすという。
<ヒダリ神>
・宮崎県東臼杵郡北浦町(現・延岡市北浦町)でいう餓鬼憑きの類。ヒダリとはひだるい、ひもじい、空腹になるの意。
山仕事や狩猟などで山に入ったら、昼食やご飯を一口分、飯一粒でも良いので、必ず残しておかないとヒダリ神に取り憑かれるとされる。ヒダリ神が取り憑くと、急に力が出なくなったり、動けなくなったりする。そういう状態に陥った際は残しておいた飯を食べれば元気になるという。
<日向尾畑新蔵坊(ひゅうがおばたしんぞうぼう)>
・『天狗経』に記されている四十八天狗の一つ。
<ヒョウスボ>
・宮崎県北部でいう水怪。
西臼杵郡日之影町鹿川では、ヒョウスボは夕方に川へ来て、夜明けには山へ上がっていく。それに伴い、水神になったり、山の神になったりする。そのため、夕方にキュウリを採りに行くものではないといい、採った時は一番に水神様に供えるものだという。
ヒョウスボの通り道であるウジがあり、ヒョウスボはオバネ(峰や山頂)を通るものだと伝える。
<ヒョウスンボ>
・宮崎県児湯郡木城町、宮崎郡佐土原町(さどわらちょう)(現・宮崎市佐土原町)、東諸県(ひがしもろかた)郡国富町、児湯郡高鍋町、西臼杵郡日之影町でいう水怪。
・西臼杵郡日之影町では、ヒョウスンボは水神様の使いだともいわれ、人目につかない得体の知れないものとされている。ヒョウ、ヒョウと鳴き、春の彼岸から秋の彼岸までは川に棲み、秋の彼岸からは山に棲みつく。頭に皿があり、皿に水がなくなると何もできなくなるため、「ヒョウスンボに出遭ったら、逆相撲を取れ」と言っていた。子どもが川へ泳ぎにいく時、「気をつけんとヒョウスンボにケツゴを取られるぞ」と親がよく脅かしていたという。
<ヒョウスンボウ>
・宮崎県宮崎市、児湯郡高鍋町でいう水怪。
・宮崎市のヒョウスンボウは「ひょいー、ひょいー、ひょういー」と鳴き、高鍋町のヒョウスンボウは「ヒュルル、ヒュルル」と鳴くとされる。雨がショボショボ降る晩には決まって、堀脇の茂みからヒュルル、ヒュルルと鳴きながら、黒い影が次から次へと飛ぶように出てきて消えていたという。
<ヒョース坊>
・宮崎県東臼杵郡諸塚村でいう水怪、山の怪、音の怪。
ヒョース坊は秋頃、川から尾根伝いに山に登るとされ、春先までは山で過ごす。家代、立岩、黒葛原にはヒョース坊の通り路と伝えられる場所があるといい、昭和20年代(1945~54)頃までは山に登るヒョース坊の声が聞こえていた。山に登る時、ヒョース坊は仲間同士で声を掛け合い、相互に場所を知らせ合うとされる。
・ヒョース坊は人に姿を見せることはなく、たとえ姿を見ても村人はそのことを口にしたがらない。ヒョース坊に関わると祟りが生じたり、仕返しされるからだという。
<ぼんぜん猿>
・宮崎県宮崎郡佐土原町でいう猿の怪。ぼんぜん猿とは古猿、年老いた猿の意。
毎晩、堤の土手にじんきち(糸車)を抱えた変化ものが出るという噂があった。ある狩人がこのじんきち変化を仕留めようと鉄砲を撃ってみたが、じんきち変化はニカッと笑って逃げて行ってしまう。そこで、仲間内で腕がたつと評判の女猟師のヤマオさんに相談すると、じんきちの車の軸を狙うようにと助言された。助言どおり、軸を狙って撃つと、じんきち変化は笑わず、ガラガラガラと気味の悪い音を立てて逃げて行った。
<鹿児島県>
<おさん狐>
・鹿児島県曽於(そが)郡(現・曽於市)でいう古狐。
志布志市の宝満寺の和尚が夏井まで法事に行っての帰り、おさん狐が棲んでいる天神原を通った。その和尚は酒と角力が好きであった。酒を飲み、お土産の油揚げを提げて帰っていた和尚を見て、おさん狐は相撲取りに化けて、和尚に挑んだ。その頃、寺では和尚の帰りが遅いため、小僧の珍念が迎えに行くことにした。珍念が天神原に着くと、和尚が松の大木と角力を取っており、お土産はなくなっていた。
<かじゃねこ>
・鹿児島県曽於郡志布志町(現・志布志市)でいうあの世のお迎え、火の車。
悪人が死ぬと、かじゃねこといって、火の車が迎えに来るという。
<ガラッパ>
・鹿児島市でいう水怪。
鹿児島市ではガラッパを見た人は死ぬとされている。「ガラッパの頭の皿を打たない」と約束した人が約束を破って、皿を打ったため、次々と出てくるガラッパたちに相撲を挑まれて精神に異常をきたしてしまったという話がある。
<ガワンバッチョ>
・鹿児島県阿久根市や出水郡東町(現・長島町)でいう水怪。
4、5歳の子どものような格好をしており、頭頂部は禿げて皿を載せているように見える。このように伝わる一方、ガワンバッチョは姿を見せず、声だけが聞こえるともいう。牛にはガワンバッチョの姿が見えるため、ガワンバッチョがいると前へ進もうとしないとされる。
<ガンバッチョ>
・鹿児島県出水市でいう水怪。
身長は1メートルから1.2メートル、7、8歳の子どもほどの大きさであるという。猿に似ているものの猿ではなく、猿はガンバッチョを見ると摑み合いの喧嘩をするため、猿回しは猿に袋を被せて川を渡る。
<ヤコ>
・鹿児島県でいう憑き物。人に憑く狐をヤコと呼び、狐憑きをヤコツキと呼ぶ。憑いたヤコを落とすのはヤコバナシと呼ぶ。
<山童(やまわろ)>
・薩州(鹿児島県)でいう山中にいる人型の妖怪。
山の寺という所は山童が多い。その形は大きな猿に似ていて、毛は黒く、常に人のように二本足で立って歩く。
・杣人(そまびと)が山深くまで入って、大きな木を伐り出し、峰を越え、谷を渡らないといけないような状況の時、山童に握り飯を与えて頼めば、どんな大木であろうと軽々と引っ担げて杣人の手助けをしてくれる。
・山童のほうから人に危害を加えることはないが、こちらから山童を打つ、もしくは殺そうと思うと、不思議なことに祟りがある。発狂したり、大病を患ったり、火事を被ったりなどさまざまな災害が起こり、祈祷や医薬も効き目がない。それゆえに、人は皆山童を大いに恐れ敬って、山童に手を出すことはないという。
<沖縄県>
<アカガンター>
・沖縄県でいう家に現れる子どもの妖怪。枕返しの類。
赤い髪をした赤ん坊の姿をしている。古い家の広間に出る、柱の陰や襖や障子の隙間から出るなどともいう。枕をひっくり返したり、寝ている人を押さえつけたりする。全身真っ赤なため、火事の前触れと解釈されることもある。
<アカナー>
・沖縄県でいう月の影模様の由来譚。
アカナーは純真な性格をしており、全身が真っ赤な猿に似た姿とも少年ともいわれている。一緒に暮らしていた悪賢い猿の計略にはまり、猿に殺されてしまうと泣いていたところを月によって天上世界へと引き上げられた。以来、月への恩に報いるために水を汲んでいるという。沖縄県では月の影の模様は、月のために水を汲んだ桶を担ぐアカナーの姿であるという。
<アカングァーイユ>
・赤子魚の意味。沖縄本島および、周辺離島でいう人魚の顔。顔、体、胴体までは人間であり、その後ろは鰭(ひれ)も尾びれもある魚であるという。名前は、人間の赤ん坊に似た泣き声に由来する。
<オジーマジムン>
・沖縄県山原地方(県北部)の家に棲みつくとされる妖怪。家の中から変な歌声が聞こえたり、イラブチャー(ナンヨウブダイ)が生きたまま風呂場で跳ねていたりするのは、たいていオジーマジムンの悪戯であるという。
<キジムナー>
・沖縄県でいう古木を棲み処とする精霊、妖怪。
主にガジュマルやウスクの古木に棲みついているとされ、赤毛の童のような姿をしている。悪戯好きであり、どんな隙間も抜けることができるため、屋内に侵入して寝ている人を押さえつけることがある。
魚獲りがうまく、地上を歩くように水面を歩いては、蟹や魚の目玉を取り食らう。キジムナーと親しくなることで、ともに獲った大量の魚を売って金持ちになることができる。毎晩魚獲りに誘われるため、嫌気がさしてキジムナーを追い払ってしまうと貧乏になる。ましてや、キジムナーの棲み処である古木を焼いたり、伐り倒したりすると、家を焼かれる等の仕返しをされる。「魚はもういらないから、他に金持ちになる方法があれば教えてくれ」と伝えたところ、黄金の入った甕(かめ)をもらったという話もある。
<後生(ぐそー)からの使者>
・沖縄県のあの世の使い。
二人組で、夜に機(はた)を織っていた美女のマブイ(魂)を抜き取るが、偶然居合わせた美女の夫により、マブイを取り返されてしまう。夜に機を織るとあの世の人にマブイを取られるという。
<ゴリラ女房>
・沖縄県中頭(なかがみ)郡読谷村儀間(よみたんそんぎま)の民話。
とある探検隊の若者が未開の島で大きなゴリラに捕まった。群れのボスであるゴリラとまる1年同棲生活を送り、ゴリラとの間に子どもを設けた。しかしいつかはここから逃げねばと若者は考えており、ゴリラたちに気づかれないよう脱出用のいかだを作り上げた。完成したいいかだで逃げようとしたところをボスゴリラに見られてしまった。ボスゴリラは怒り、我を忘れて我が子の両足を掴み、思わずその子を引き裂いてしまったという。
<ザー>
・沖縄県宮古島でいう女性姿の妖怪、幽霊。死霊とも呪術によって生きながら化け物となった女性ともされる。
<ザン>
・沖縄県石垣島に現れたという人魚。
<椎の木の精>
・昔、大宜味村喜如嘉に一人の娘がおり、ある日、山に椎の実を拾いに出かけた。山奥まで行ったが、椎の実がないために早めに帰宅にかかった。しかし、あまりにも山奥に入ったため道に迷ってしまい、日が暮れて進むこともできなくなった。娘は一夜を明かすために大きな古木の下へと足を延ばした。夜半と思われる頃、大勢の人々が踊っているような気配がしたため、娘は何気なく頭を上げてみると、周辺の様子が変わっていた。青々とした芝の上で緑の衣を着た人々が踊っており、娘は驚きのあまり、居住まいを正した。今まで自分が休んでいた大きな古木もなくなっており、娘がその場から逃げようとすると、後ろから大きな猪が追いかけてきた。娘はますます狼狽(うろた)えて、踊っている座の中へと入り込んでしまった。するとそこに白いひげを長く垂らした翁がおり、娘を抱き上げた。夜が明け、娘は気が付くと元の山におり、大木の枝の股にしがみついて寝ていた。
<シェーマ>
・沖縄県国頭(くにがみ)郡本部町、国頭郡恩納村(おんなそん)に出る妖怪。キジムナーの一種、もしくは別名の一つと紹介されることがある。
本部町のシェーマは顔が赤く、髪がぼさぼさで、背が低い。シェーマは木に棲み、夏は川で漁をしているが、寒がりなため、冬は漁に行かず、北風が吹くような所へも行かず、北風が吹くような所へも行かず、山に行くという。何匹かで小屋にやって来ては釜口で火にあたる。少しでも人の気配を感じるとぱっといなくなってしまう。
<シチマジムン>
・沖縄県山原地方、島尻郡、久高島でいう魔物、化け物。シチともジームンとも呼ばれる。
・シチマジムンは形の見えないぼんやりとした雲か風のようなもので、軽快な動作をするものであるという。板戸の節穴のような所からも出入りできるのみならず、その中から人を連れ出すこともできるという。1週間も2週間も人を連れ出して迷わし、時には墓穴の中に押し込める。これをシチニムタリユン、もしくはムンニムタリユンと呼ぶ。
・シチマジムンは真っ黒で山道を歩くと前に立ち塞がって人の邪魔をするものだという。クルク山のシチマジムンが山原では有名だとされる。
<セーマ>
・沖縄県国頭郡今帰仁村古宇利島や羽地内海やがんな島に出る妖怪。名前は精魔の意。キジムナーの一種、もしくは別名の一つとされる。
古宇利島のセーマは赤子のように小さい体をしているとされる。目は丸く、赤い髪の毛をボサボサと振り乱している。
<タチッチュ>
・沖縄県山原地方でいう子攫いの怪。
タチッチュという名前の漢字表記は嶽人としている。
夕方、山から杖をついて下りてきては子どもを攫っていく。非常に力が強い若者がタチッチュと角力をとっても勝つ者はいないとされている。
<壺のマジムン>
・沖縄県でいう化け物。
山羊に化けては、通る人を悩ませ、数えきれないほどの人命を奪った。
<仲西(なかにし)>
・沖縄県でいう妖怪。
晩方に、那覇と泊の間にある塩田潟原(かたばる)の潮渡橋の付近で「仲西ヘーイ」と呼ぶと仲西が出てくるという。
<ピーシャーヤナムン>
・沖縄県でいう山羊の妖怪。山羊の幽霊。
山原地方に棲む山羊の魔物で、幻術で小さい白山羊をたくさん出現させ、夜道を行く人の股の下を潜らせて、驚かせる。股を潜られた人は精気を抜かれて死んでしまうとされている。
<ヨナタマ>
・沖縄県宮古島市下地島でいう人魚。ヨナイタマとも。
ヨナタマは顔が人間で、体が魚の姿をしており、よくものを言うとされる。
<鹿児島県(薩南諸島)>
<アモロウナグ>
・鹿児島県奄美大島でいう天女。樹木が鬱蒼と生い茂る渓谷の淵や滝壺の水溜まりで水浴びをする。危害を加えられる話はないが、恐れられるという。
<醫王島光徳坊(いおうがしまこうとくぼう)>
・『天狗経』に記されている四十八天狗の一つ。鹿児島県硫黄島の天狗。
<磯坊主(いそぼうず)>
・鹿児島県吐噶喇列島でいう水怪。
磯坊主は頭の頂に皿があり、そこに水が入っている。海にも山にも棲んでおり、よく人に祟る。
<兎の怪>
・鹿児島県大島郡大和村でいう人食い兎。猿神退治譚の類。
ある島で毎晩、餅一組と人間を一人ずつ連れ去られていた。村の人がだいぶ連れ去られていたある日、勇気ある二人が餅を叺(かます)(藁筵(わらむしろ)を二つ折りにして作った袋)に担いで持っていったところ、白い兎がたくさん現れ、口々に何か唱えながらしきりに東に向かって頭を下げて拝んでいた。その様子から、兎が坊さんになって村に来ては人間と餅を食べていたことが判明した。犯人の正体を知った二人は婆さんが飼っている大犬を借りてきて、餅を食べていた兎を一匹ずつ食い殺させた。以来、村の人を盗られることはなくなった。
<海鹿(うみしか)>
・鹿児島県屋久島の海に現れる怪物。
首は馬に似ている大きく黒いもの。鹿が走るような速さで泳ぎ、人を食べるとされる。
<ガラッパ>
・鹿児島県種子島や吐噶喇列島、奄美大島などでいう水怪。
ガラッパは石に投げつけても死なないが、木の根に投げつけると死ぬとされる。ガラッパと相撲を取りはじめる際、ガラッパは「俺の皿にかもうな」、人間は「俺の尻にかもうな」と言ってから相撲を始める。溺れた人間の肛門が引っ込んでいるのは、ガラッパとの相撲に負け、ガラッパに尻を抜かれたためだという。
・タギリ川へある人が草刈りに行った。「相撲取ろうから、来い、来い」とガラッパに言うと、ガラッパが来て相撲を取った。ガラッパは何度も投げつけたが、続々とかかってきてついにはガラッパにその人は負けてしまった。その後、その人は精神に異常をきたしてしまい、ガラッパを斬るために常に刀を差して歩くようになったという。
<ガワッパ>
・鹿児島県屋久島でいう子ども姿の水怪。
小坊主に化けて、大瀬という場所へ誘う。人が溺れて死ぬのは、ガワッパに尻子玉を抜かれるためであるという。
<鬼界ヶ島伽藍坊(きかいがしまがらんぼう)>
・『天狗経』に記されている四十八天狗の一つ。鹿児島県種子島や吐噶喇(とから)列島の天狗。
<ケンムン>
・鹿児島県奄美大島や徳之島でいう怪物。
・ガジュマルやアコウの木を棲み処とする点や、ケンムンマチといって火を灯す点などから沖縄県のキジムナーの類として受け取られたり、相撲を取ることを好む点、頭に力水もしくは油を溜めておく皿がある点などから河童の類とも解釈されたりするが、他の妖怪との共通点を見ていくのであれば、十島村のガラッパや熊本県のヤマワロ、宮崎県のヒュース坊に四国の芝天はもちろんのこと、天狗や狐に鎌鼬(かまいたち)、中国大陸のトッケビやマレーシアに伝わる木株の精と共通するところもある。そのため、一概に具体的な怪異妖怪の仲間とは呼べず、ガジュマルやアコウの木を棲み処とする小柄な人型の怪物、あるいは陸上で遭遇する妖怪変化の総称としてケンムンという名前は用いられている印象を受ける。
・下野敏見氏によれば、奄美群島全域のケンムン話を採集したらおそらく何万語にも達するだろうと見られている。それだけケンムン話は多く、枚挙にいとまがない。
・ケンムンの姿であるが、人型の場合、2歳から8歳くらいの子どものようだと形容される。
・河童が大陸から日本に渡ってきた、大工が術をかけた藁人形が河童になった、入水した平家が河童となった、といった起源譚があるように、ケンムンにもいくつか起源譚が伝えられている。
ジャワ島がケンムンの原産地であり、1億6000万年の間に奄美までやって来た。大工の神であるテンゴの神が呪いをかけた藁人形がケンムンになった。継母にいじめられていた兄弟が太陽神テダクモガナシによってケンモンとウバに変えられた。美しい妻を奪うためにユネザワを殺したネブザワという男が神によって半人半獣のケンモンに変えられたといった話がある。
<ブナガヤー>
・鹿児島県奄美大島でいう小さい人型の妖怪。
赤毛であり、大きさは7、80センチほどだという。チョコチョコと走り、わずかの間走って歩く。川の波打ち際で漁をするとされる。
<目一つ五郎>
・鹿児島県熊毛郡南種子町でいう一つ目の人食い鬼。
<九州・沖縄広域>
<九千坊(くせんぼう)>
・中国の黄河に棲でいた河童一族の親分。
大昔、黄河を下り、黄梅若という怪物の襲撃から逃れ、海を泳いで渡って九州の八代の浜(熊本県八代市)に辿り着き、九州一の大河である球磨川に棲みついた。河童一族の9000匹という数は、黄河にいた頃からとも、球磨川に棲みついてから増えたともいわれている。
ある時、いたずらをした河童が村人に捕らえられ、「この大石が水の流れですり減って消えるまではいたずらはしない」と誓い、そして年に一度、祭りをしてもらいたいと請うた。その祭りは、河童が捕らえられ祭りを願った5月18日と定め、「オレオレデーライタ川祭」と名づけて毎年開催されることになった。
<英彦山豊前坊(ひこさんぶぜんぼう)>
・福岡県と大分県の県境にある英彦山の高住神社に祀られている九州の天狗の首領。英彦山は修験霊場として全国的に名高い場所である。英彦山豊前坊は日本八大天狗の一つであるほか、『天狗経』の四十八天狗にもその名が記されており、全国的に有名な天狗の代表として頻出する。
<その他(物語・絵画など)>
<アマビエ>
・京都大学附属図書館に所蔵されている瓦版に書かれているもの。
肥後国(熊本県)の海中に毎夜光るものが出るため、役人が見に行くと、口は尖り、体には鱗がある、長髪の三足獣が現れた。「私は海中に住むアマビエと申す者である。当年より六ヶ年の間は諸国豊作であるが、それに伴い、病も流行る。早々に私を写して人々に見せるように」と言って、海中へと潜った。
<尼彦(あまびこ)>
・肥後国(熊本県)に尼彦が現れたと書いた資料がいくつか見受けられる。熊本御領分真字郡や青沼郡磯野浜に猿のような声で人を呼ぶ光る怪物が現れた。柴田という者が見届けに行くと猿に似た三足獣がおり、「我は海中に住む尼彦と申す者である。当年より六ヶ年は豊作であるが、諸国に病が流行り、人間が六分通り死ぬ。だが、我の姿を書き写したものを見れば、病を免れる。この事を人々に知らせよ」と告げて消え去ったとされる。
<尼彦入道(あまびこにゅうどう)>
・日向国(宮崎県)イリイ浜(架空の地名)沖に現れたとされる。熊本士族の柴田右太郎に「六年は豊作の年となるが、悪病が流行る」と告げ、入道の姿を朝夕見れば、難を逃れられると伝える。
<アリエ>
・明治9年(1876)6月17日付『山梨日日新聞』、6月30日付『長野新聞』に記されているもの。
肥後国(熊本県)青鳥郡(架空の地名)に現れたとされる。夜な夜な海中から現れては往来を歩き回る怪物がいた。気味が悪く、誰も寄り付かなかったが、旧熊本藩士がこの怪物に近づいたところ、怪物は語りはじめた。自分はアリエといって、海中鱗獣の首領である。6年の間は豊作だがコロリ(赤痢)が流行し、世の人の六分通りが死ぬ。自分の姿を描き、朝夕拝むことで死を免れると告げたという。
噂は広まり、肥後では各家にアリエを描いた紙が貼られている。
<海人(かいにん)>
・形は人の体と違わないが、手足に水かきがあり、全身に肉皮が垂れ、まるで袴を着ているように見える。陸地に上がっても数日の間は死なず生きている。
<重富一眼坊(しげとみいちがんぼう)>
・狐が化けたもの。高くそびえる鼻、耳元まで裂けた鰐口、曇りのない鏡のように光り輝く一眼をした、見上げるような大山伏の姿をしている。
<三つ眼の旧猿坊(みつめまなこのきゅうえんぼう)>
・狐が化けたもの。三つ眼の化け物。猿1000年を経て狒々(ひひ)となり、狒々万年を経て猴阿弥(こうあみ)となる、三つ眼の旧猿坊は近頃立身出世して、この猴阿弥となったのだと自称する。
『中国の鬼神』
著 實吉達郎 、画 不二本蒼生 新紀元社 2005/10
<玃猿(かくえん)>
<人間に子を生ませる妖猿>
・その中で玃猿(かくえん)は、人を、ことに女性をかどわかして行っては犯す、淫なるものとされている。『抱朴子』の著者・葛洪は、み猴が八百年生きると猨(えん)になり、猨が五百年生きると玃(かく)となる、と述べている。人が化して玃(かく)になることもあるというから、普通の山猿が年取って化けただけの妖猿(ばけざる)よりも位格が高いわけである。
古くは漢の焦延寿の愛妾を盗んでいった玃猿の話がある。洪邁の『夷堅志』には、邵武の谷川の渡しで人間の男に変じて、人を背負って渡す玃猿というのが語られる。
玃猿が非常に特徴的なのは、人間の女をさらう目的が「子を生ませる」ことにあるらしいこと、生めば母子もろともその家まで返してくれることである。その人、“サルのハーフ”はたいてい楊(よう)という姓になる。今、蜀の西南地方に楊という人が多いのは、みな玃猿の子孫だからである、と『捜神記』に書かれている。もし、さらわれて玃猿の女房にされてしまっても、子供を生まないと人間世界へ返してはもらえない。玃猿は人間世界に自分たちの子孫を残すことを望んでいるらしい。
<蜃(しん)>
<蜃気楼を起こす元凶>
・町や城の一つや二つは、雑作なくその腹の中へ入ってしまう超大物怪物だそうである。一説に蛤のでかい奴だともいい、龍ともカメともつかない怪物であるともいう。
日本では魚津の蜃気楼が有名だが、中国では山にあらわれる蜃気楼を山市。海上にあらわれる蜃気楼を海市と称する。日本の近江八景のように、中国にも淄邑(しゆう)八景というのがある。その中に煥山(かんざん)山市というのがあると蒲松齢(ほしょうれい)はいっている。
その煥山では何年かに一回、塔が見え、数十の宮殿があらわれる。6~7里も連なる城と町がありありと見えるのだそうである。ほかに鬼市(きし)(亡者の町)というのが見えることもあると蒲松齢が恐いことを言っている。
『後西遊記』には、三蔵法師に相当する大顛法師半偈(たいてんほうしはんげ)の一行が旅の途中、城楼あり宝閣ありのたいへんにぎやかな市街にさしかかる。ところが、それが蜃気楼で、気がついてみると一行は蜃の腹の中にいた、という奇想天外な条がある。それによれば、途方もなく大きな蜃が時々、気を吐く。それが蜃気楼となる。その時あらわれる城や町は、以前、蜃が気を吐いては吸い込んでしまった城や町の幻影だ、というのである。
<夜叉(やしゃ) 自然の精霊といわれるインド三大鬼神の一つ>
・元来インドの鬼神でヤクシャ、ヤッカ、女性ならヤクシニーといい、薬叉とも書かれる。アスラ(阿修羅)、ラークシャサ(羅刹)と並んで、インドの三大鬼神といってもよい。夜叉はその三大鬼神の中でも最も起源が古く、もとはインドの原始時代の“自然の精霊”といっていい存在だった。それがアーリヤ民族がインドに入って来てから、悪鬼とされるようになった。さらに後世、大乗仏教が興ってから、夜叉には善夜叉(法行夜叉)、悪夜叉(非法行夜叉)の二種があるとされるようになった。
大乗教徒はブッダを奉ずるだけでなく、夜叉や羅刹からシヴァ大神にいたるまでなんでもかんでも引っぱり込んで護法神にしたからである。ブッダにしたがい、護法の役を務める夜叉族は法行夜叉。いぜんとして敵対する者は非法行夜叉というわけである。
・夜叉は一般に羅刹と同じく、自在に空を飛ぶことが出来る。これを飛天夜叉といって、それが女夜叉ヤクシニーであると、あっちこっちで男と交わり、食い殺したり、疫病を流行らせたりするので、天の神々がそれらを捕えて処罰するらしい。
・安成三郎はその著『怪力乱神』の中に、善夜叉だがまあ平凡な男と思われる者と結婚した娘という奇話を書いている。汝州の農民王氏の娘が夜叉にさらわれてゆくのだが、彼女を引っかかえて空中を飛ぶ時は、「炎の赤髪、藍色の肌、耳は突き立ち、牙を咬み出している」のだが、地上に下り、王氏の娘の前にいる時は人間の男になる。
・人の姿をして町の中を歩いていることもあるが、人にはその夜叉の姿は見えないのだという。
・王氏の娘は、約束通り2年後に、汝州の生家に帰された。庭にボヤーッと突っ立っていたそうだ。この種の奇談には、きっと娘がその異形の者の子を宿したかどうか、生家へ帰ってから別の男に再嫁したかどうかが語られるのが普通だが、安成三郎はそこまで語っておられぬ。『封神演義』に姿を見せる怪物、一気仙馬元は夜叉か羅刹だと考えられる。
・『聊斎志異』には「夜叉国」なる一篇がある。夜叉の国へ、広州の除という男が漂着すると、そこに住む夜叉たちは怪貌醜悪だが、骨や玉の首輪をしている。野獣の肉を裂いて生で食うことしか知らず、徐がその肉を煮て、料理して食べることを教えると大喜びするという、野蛮だが正直善良な種族のように描写される。玉の首環を夜叉らが分けてくれ、夜叉の仲間として扱い、その頭目の夜叉にも引きあわせる。徐はその地で一頭の牝夜叉を娶って二人の子を生ませるというふうに、こういう話でも決して怪奇な異郷冒険談にならないところが中国である。
夜叉女房と二人の子を連れて故郷へ帰ると、二人の子は何しろ夜叉の血を引いているのだから、強いのなんの、まもなく起こった戦で功名を立て、軍人として出世する。その時は除夫人である牝夜叉も一緒に従軍したそうだから、敵味方とも、さぞ驚動したことだろう。その子たちは、父の除に似て生まれたと見えて、人間らしい姿形をしていたようである。
<羅刹(らせつ) 獣の牙、鷹の爪を持つ地獄の鬼>
・インドの鬼神、ラークシャサ。女性ならラークシャシー。夜叉、阿修羅と並んで、インド原産の三大鬼神とされる。阿修羅は主として神々に敵対し、羅刹は主に人類に敵対する。みな漢字の名前で通用することでも明らかなように、中、韓、日各国にも仏教とともに流入し、それぞれの国にある伝説、物語の中に根づいている。
日本でも、「人間とは思えない」ような凶行非行を働く時、「この世ながらの夜叉羅刹……」と形容する。悪いことをすると死後地獄へゆくとされ、そこにたくさんの鬼がいて亡者をさんざん懲らしめるというが、その“地獄の鬼”こそ阿旁房羅刹と呼ばれる羅刹なのだ。
『焔魔天曼荼羅』によると十八将官、八万獄卒とあって、八万人の鬼卒を十八人の将校が率いていて、盛んにその恐るべき業務を行なっているという。日本、中国の地獄に牛鬼、馬鬼と呼ばれる鬼たちがいると伝えられるもの、みな羅刹なのだ。
中国の『文献通考』によれば、羅刹鬼は「醜陋で、朱い髪、黒い顔、獣の牙、鷹の爪」を持っているという。『聊斎志異』には「羅刹海市」という一篇があり、どこかの海上に羅刹の国があることになっている。そこでは、われわれのいう“醜い”ということが“美しい”に相当し、“臭い”ということが、“いい匂い”に相当する。
中国人を見ると逆に「妖物だ」といって逃げる。そこには都もあり、王もいるのだが、身分が高いほど醜悪であった。国は中国から東へ二万六千里離れている。神々や鮫人(こうじん)たちと交易していて、金帛異宝の類を取り引きしていた。
この「羅刹海市」では他国から来た者を、即座に取って食うようなことはしないようであるが、中国の内外に来ている(?)羅刹はもちろん人さえ見れば取って食らう。『聶小倩』という小説によると、羅刹は長寿だが、やはり死ぬこともあり、骨を残すこともあるらしい。ところがその骨の一片だけでも、そばにおいていると心肝が切り取られ死んでしまう。また、羅刹も夜叉もそうだが、男性は醜怪だが女性は妖艶な美女と決まっていて、その美色を用いて人間の男を誘惑し、交わり、そのあとで殺して食う。
<張果老(ちょうかろう) 何百歳なのかわからなかったという老神仙>
・その頃の老翁たちで張果老を知っている者は、「彼はいったいいくつじゃろう、わしらの祖父の頃から変わらないのじゃ」と噂していたという。色々な仙術を使うばかりか、奇仙中の奇跡であった。帝王たちに尊信され招かれると、うるさがって死ぬくせがあった。唐の太宗も、その次の高宗も、召し出そうとしたが死んだ。恒州の中条山に隠れたっきり、下りて来なかったこともあった。
則天武后は特に執拗で、「どうあっても来い」と強制した。張果老はいやいやながら山から連れ出されたが、妬女廟のところまで来かかると死んだ。真夏の最中なので、遺骸はすぐに腐敗して蛆が発生した。則天武后もそれを聞いてやっとその死を信じた。
ところがほどもなく、恒州で張果老が生きている姿を何人も見た人があった。唐の玄宗は則天武后よりあとで帝位についた天子で、張果老が生きていることを知ると裴唔(はいご)という侍従を遣わし、「何がなんでも召し連れて来い」と命じた。裴唔が張果老に会うと、また悪いくせを出して死んでしまった。ざっとそんな具合であった。
列仙伝などで仙人たちを紹介する文章には、必ず生地も、来歴も、字や称号も書いてあるのだが、この奇仙は張果と名乗り、何百年生きているのか分からないので、張果老と敬称がついているだけである。
・彼が汾州や晉州あたりまで出遊する時、乗っていくロバも、彼が奇仙であることの証明であった。それは“紙製のロバ”であった。見たところ、普通の白いロバなのだが、一日に数千里も踏破して疲れを知らない。目的地へ着くと、張果老はそのロバを折り畳んで、手箱の中へしまっておく。再び乗る必要が生じた時は、出して地面に広げて、口に含んだ水を吹きかけるとムクムクと立体化して白いロバになるので、またがって出発する。これなら、飲ませる水も食わせる飼葉も、つないでおく杭もいらないし、盗まれる恐れもないわけだ。
玄宗皇帝の使者・裴唔が会った時、張果老はコロリと倒れて絶命してしまったのであるが、裴唔はこの老仙人がチョイチョイ死ぬくせがあることをわきまえていて、慌てず騒がなかった。死体に向かって恭しく香をたいて、お召しの旨を伝えた。すると張果老はヒョッコリ起き上がって礼を返した。人を馬鹿にした老爺。
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